人々を個人の集団ではなく「やつら」と見なすことが差別の本質じゃないのかなあ

関東大震災のとき、朝鮮人がデマに扇動された民衆によって虐殺されたのは歴史的事実だけど、日本人雇用主のような日本の知人によって保護されて助かった人たちの証言も残されている。その違いはなんだろう。雇用関係などで個人としての朝鮮人を知っていた日本人は「この人が井戸に毒をまいたり攻撃しようとするはずはない」と思っていたから殺気立った自警団から隠したりして守ろうと思ったのだろう。

相手が自分と同じ人間であり、自分と同じように危機には恐怖し、自分と同じように考える生き物なのだと考える時、人は相手を容易に殺せなくなる。反対に相手を理解不能な行動原理を持つ自分たちとは異なる集団と考える時、人は容易に虐殺に手を染める。特定個人ではなく、「くくり」としての「○○人」は殺せるわけだ。

 

僕は「海外の反応」系ブログが好きだ。日本のいろんなことを海外の人が見聞きしたり経験したりして、その感想や意見を書いたものを翻訳して発信している日本のブログが幾つもある。肯定にしろ否定にしろ、海外から見た、僕達があたり前だと思ってる日本というものを外国人の視点で知るのは面白い体験だと思うのだ。だけど、そういうブログを見ていると、例えば韓国人が日本旅行して食べた料理がうまかった。街が綺麗だった、韓国もこうでなければいけないみたいな個人の旅行記事でさえ、「なんで嫌いなのに日本に来るの?」「こっちみんな」「日本にトンスルはありませんよ」みたいな罵倒コメントが大量につくのが定番なのである。

 

日本のアニメが好き、日本の食事が好きという個人の集合。彼らは一人ひとり人間である。もちろん韓国人や中国人の多くは戦争当時の日本を否定するだろうし、戦前戦中の日本を全肯定するかどうかを突きつけたら反発するだろう、それと日本に来て日本文化に親しんでる事、日本文化を楽しむことは両立するのである。そんな彼らをあえて否定して追い返そうとする事に意味はあるのか?

 

外国人が日本に対して思うことは一つではない。「かつての敵」「かつての支配者」という思考だけで日本に来るわけではない。そもそも全てを否定したい憎むべき国と思っていたら観光なんかに来ないだろう。日本に観光に来るのはある程度日本を好きな人が多数を占めるはずだ。

 

なぜ「来るな、見るな。関心持つな」となってしまうのか。韓国人や中国人を「反日」という思考統一された強固な集団として認識してしまっているからだろう。

 

韓国については、特にひどいと感じる。前にちょっと書いた「トンスル」は韓国(朝鮮)に存在したとされる人糞を使用した薬酒のことなのだが、これが「トンスル」という名前で実在したのかもさだかでないし、あったとしても現代あたり前に飲用されるものではない。そんな話をしたら、日本の江戸時代、有名な処刑人山田浅右衛門家が売っていた高価な万能薬は刑死人の脳や肝臓などを使った薬であった。うんことカニバリズムどっちが高級だよって話になる。また、ホンオフェと呼ばれるガンギエイの刺し身を発酵させた食品はしばしば糞尿で発酵させたと言われている。これは現代も地域によって普通に供される料理だが、サメやエイといった軟骨魚類アンモニアが発生しやすいのであって、糞尿を使っているわけではないのだが、人糞に漬け込んだものという意見が日本だけでやたら普及していた。

そんなわけで、海外の反応ブログでは韓国を「トンスルランド」「南トンスルランド」韓国人を「トンスラー」などと呼称する事が多い。また、韓国人を「チョウセンヒトモドキ」と呼称する場合もある。これなどは人類ですらない、まさに種から違う存在として扱っていることになる。

 

当たり前だが人は個人個人別の人格を持っている。これを集団でくくって「やつら」にしてしまうのは差別のもっとも初歩的な形態であると思うのだ。その初歩的な差別がまかり通ってる事に危惧を抱いていることを表明しておく。