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霊的装置としての靖国神社

雑談

 僕はサヨクを自称しているので靖国神社は基本的に嫌いだ。そもそも神なる超自然的存在をまるっと信じていないので、国のために死んだ人間が神になるという設定自体全く納得できない。そんな僕が靖国にいったのは大学卒業時。武道館で行われた卒業式に田舎の両親がやってきて、「近いから靖国いきたい」と希望されたからだ。

 

 渋る僕を父が「おまえの親戚もここにいるんだから」と靖国につれてったのだが、行ってみるとなんというか、あれはすごいと思わされた。立ち並ぶビルとクソみたいに狭い民家が並ぶ千代田区で、あの領域は切り離された空間と言っていい。十分に広い、かつ街を歩いていては到達できない空間。丸石を並べた参道は、歩いていくうちに次々英霊の銅像が現れ、たまたま参拝客の少ない時期だったのかもしれないが、異様に静かな「異界」を現出させていた。これは確かにこの世と彼岸を繋ぐ境界を演出している。純粋に民衆を導く空間設計というものがあるのだなとすげえ感心した。

 宗教建築というものは、基本的にそういう設計がなされている。西欧の大きな教会も神の世界を感じさせるために知恵を絞ったものだ。そして人間は容易にその異界に呑まれる。

 

 古くはエジプトの大ピラミッド、日本の仁徳天皇陵もそうだが、巨大なものを築いて民衆を畏怖せしめる。世俗との切り離しを行って神秘に触れる修道院、現代の新興宗教が、笑っちゃうようなド派手な建物を建てるのもすべて信者を畏怖させ、常識的な世界を超えさせる試みである。

 

 現代先進国の、高等教育を受けている人間は、本来的に「畏怖」に頼る霊的装置を認めない。それは生物としての本能に訴えるものであって、非論理的だからだ。世界の本質が科学に置き換わった現代社会では、あんなものは認められるわけはない。しかし人の多くは感性に抗えない。そして霊的装置が生み出す異界は人を拘束する。理性と感性。この戦いは19世紀には理性が勝つと思われたのだが、いまでも決着がついていないのだ。