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海野十三は昭和20年8月14日に終戦を知ったのかも

海野十三という人は、戦前大人気だったSF小説家である。日本SFの始祖とも言われている人だ。この人が太平洋戦争末期から書いていた日記が青空文庫にあがっている。

図書カード:海野十三敗戦日記

 

なんとなく小説家みたいな知識人、なかでも科学知識とかに詳しいSF作家は戦争中も反戦的だったのではないかと思いがちだが、まあこの人なんかはふつーに日本の正義を疑ったりしてないし、政府や軍の不甲斐なさを嘆くことはあっても、反戦的な傾向は見られない。まあ、当時の普通の人はこうだったのだろうと思う。海野十三本人は徴兵検査で不合格だったので兵士として出征した経験はないのだが、海軍従軍作家として巡洋艦に乗ることができ、大喜びしてたらしい。

 

海野十三敗戦日記」は昭和19年12月7日から始まっており、当初「空襲都日記」と題されていた。東京が空襲を受けるようになって後日のために記録をとっておくことにしたと書かれている。海野十三の家は世田谷にあり、都心に比べれば被害は少なかったのだが、それでも時期によっては隣家に焼夷弾が落ちてきたりしてるし、買い出しや打ち合わせで都心に出たりもしているので焼け野原になった東京の様もリアルタイムの記録として書かれていて非常に興味深い。

なにしろ東京に頻繁に敵機がやってきて爆弾を落とすようになった時期なので、そういう話が多いのだが、どうだろう。毎日のように空襲があるという日常って想像もつかないのだが…

 十二月二十八日
◯きょう午後一時半ごろ、高射砲音轟く。外へ出てみると、一機北方の空に西から東へ雲を曳いている。眼鏡でみれば、まさしく敵機なり。ただし警報出でず。
 あとで言訳のような東部軍管区情報が出る。

 

 こんな記述が淡々と続くと、なんというか、地震が来てから緊急地震速報がなって文句言う現代人とあまり変わらない気もしてくる。日常になってしまえば人は慣れるのだろうなあ。

 五月二日
◯昨五月一日、ヒットラー総統はベルリンに於ける戦闘指揮の位置に於いて死去し、後任としてデーニッツ提督を任命したという。
 その新総統はハンブルグから全国に放送し、共産主義に対する戦争の継続を宣言し、米英軍といえども共産主義に加担する者は容赦せず、と宣した。
 その放送より私の受けとったものは、デーニッツ氏の米英への秋波である。
 かねてドイツ海軍内部には、反抗等の暴動ありと伝えられている。その分子がヒットラー総統及びヒムラー内相を暗殺することあらば、ドイツはナチの色を払拭し、休戦するであろうとの情報が存在した。
 これとあれとを相関して考え、とにかくヨーロッパに於けるドイツ軍の対米英ソ戦争は終ったのだと思う。
 日独伊防共協定も、これが終幕である。あとは大東亜戦争のみが残り、そして継続することは確かである。
 但しその他の新事態、新争闘の発生するであろうことは当然であり、大東亜戦争のみがこの世界にひとり進行するのでないことは疑いない。
 戦争もこれからが本舞台だ。世界の情勢もこれからがいよいよ複雑化する。しっかりやらなくてはならない。そして長生きして世界の移り変わりをよく見極めたいものである。
◯四月に於けるわが収入は、金五十二円八十銭であった。大学卒業後今日までに於ける最低収入の月であった。記憶に値する。

国際情勢もある程度きちんと伝わっている。そして海野十三は現代の我々が知ってる事を、まさにその時に正しく見抜いている。デーニッツはとにかくソ連抜きで米英に降伏しようと手をつくしてた。連合国対枢軸国の大戦が終わっても新たな戦争が続くだろうと思っている。ただ、微妙に日米戦争が継続しつつ様々な紛争が並走すると考えていたようにみえる。まだ日本が負けると思えない気持ちだったのだろうなあ。このドイツ敗戦後のどうなったか…やはり日本の状況はより厳しくなってきたのが見て取れる。

 七月十四日
◯前誌より一ヵ月以上経った。なぜこの日記を書かなかったのかと考えてみる。忙しさのためだったといえよう。その忙しさの原因は、空襲対策の整理のため、仕事のため、殊に講演出張のため。
◯沖縄は去月二十日を以て地上部隊が玉砕し、二十六日にはそれが発表された。「天王山だ、天目山だ、これこそ本土決戦の関ケ原だ」といわれた沖縄が失陥したのだ。国民は、もう駄目だという失望と、いつ敵が上陸して来るか、明日か、明後日か、という不安に駆りたてられている。
 果して天王山だったのか、関ケ原だったのか。それは尚相当の時日を貸さなければ判定できないが、この天王山だの関ケ原などという用語が、あまり感心出来ないものであることは確かだ。それは国民の戦力|敵愾心《てきがいしん》を集結させるために余儀ない強い表現であったかもしれないが、今度のように沖縄がとられてしまったとなると、もうあとは戦っても駄目だ、日本の国はおしまいだという失望におちいって、動きがとれなくなる。これは困ったことだ。
 当局はそれに困ってか、沖縄は天王山でも関ケ原でもなかった。そんなに重要でない。出血作戦こそわが狙うところである――という風に宣伝内容を変えてもみたが、これはかえって国民の反感と憤慨とを買った。そんならなぜ初めに天王山だ、関ケ原だといったのだと、いいたくなるわけだ。
 これに対して、鎌倉円覚寺管長の宗海和尚はこういっている。「沖縄は天王山であり、関ケ原である。あれはとられたが、ぜひとも奪還しなければならぬ、それほど沖縄は重要なのである、という風に持って行くべきじゃ」この説まことに尤もである。最近では遠藤長官が、この奪還論を掲げるに至った。

 

沖縄の陥落はやはり大きかったようだ。もう負けたことにしないための言い訳を言い出しているようにみえる。そして原爆投下後。

八月九日(その一)
◯去る八月六日午前八時過ぎ、広島へ侵入したB29少数機は、新型爆弾を投下し、相当の被害を見たと大本営発表があった。これは落下傘をつけたもので、五、六百メートル上空で信管が働き、爆発する。非常に大きな音を発し、垂直風圧が地上のものに対して働くばかりか、熱線を発して灼《や》く。日本家屋は倒壊し、それによる被害者は少なくなかった。熱線は、身体の露出部に糜爛《びらん》を生じ、また薄いシャツや硝子は透過して、熱作用を及ぼすのである。
 広島の死傷者は十二万人という。これは逓信省《ていしんしょう》へ入った情報である。右新型爆弾の惨虐性につき、新聞論調は大いに攻撃するところがあった。
 新聞発表は八月八日であったが、この日は対策が示されなかった。李※[#「※」は「金+禺」、69-上-3]公殿下も御戦死(七日)爾来一機のB29も油断ならずとして、壕内待避をする事となった。
「敵は、新型弾使用開始と共に、各種の誇大なる宣伝を行ない、既にトルーマンの如きも新型爆弾使用に関する声明を発しているが、これに迷う事なく、各自はそれぞれの強い敵愾心をもって、防空対策を強化せねばならぬ」とA新聞はこの日の報道を結んでいる。
◯わが家の措置としては、情報判断により、つとめて裏の防空壕に入ること、表の地下物置は蒲団をかぶるようにし、上からの爆風に耐えるよう何か考えること(畳を重ねて上に置くことも一つ)、素掘壕の上に何か置くこと(大本箱を置くことも一つ)、素掘壕をもっと深く、かつ横穴式に掘ってみる事、もう一つは疎開のことを考え直すこと。尚もし家屋が倒壊すれば、その資材を使って、地下家屋を建てる事にすればよろしい。
 心配の一つは、農作物がこれによってやられるであろうから、今年の米の収穫は非常に減少する事であろう。そのための食糧対策として、イモ系のものをたくさん作って置く必要がある。その他の保存食糧の入手についても、努力せねばならぬ。
 積極的対策としては、飛行機増産により、敵機を侵入させぬよう努める事が肝要。
(昨夜あたりは、いつになく味方夜間戦闘機が相当数出て、上空を警戒していた)
◯敵が追い追いと新しい威力を備えた新兵器をくり出す事は、かねて予想された事であって、今さら驚くに当たらない。日本がサクラの爆薬をもち、風船爆弾をくり出し、特攻隊を有するのに対し、アメリカはB29だけというわけにも行くまいではないか。もともとアメリカは科学技術について一流の国であり、近来はそれを世界一の水準にあげるべく努力して来たわけで、現在その実力はほぼこの目標近くに達している。そういう敵アメリカが、今まで新兵器を出さなかった事はふしぎなくらいである。
 新兵器は一応恐るべき力を発揮するが、それは出現の最初の時期だけと、それについての宣伝力の及ぶ或る期間だけのことである。その対策がとられ、人々が用心深くなり、その結果被害がだんだん減少して来ると、その新兵器の実力以下に評価される時代が必ず出てくる。
 V一号[#ドイツの開発した、有翼のロケット爆弾機]出現当時のロンドンその他の混乱はたいへんなものであったが、それの対策が出来ると共に、市民は平静さをとり戻し、被害は少なくなった。わが特攻隊の出現は敵陣を大恐怖せしめたが、今ではいろいろの対策がとられて、或る程度の効果をあげている。すなわち特攻隊の通路に三重四重に戦闘機隊の網をはる事、弾幕を完全なものにするため船舶の対空砲火を増大する事、内地の航空基地の攻撃激化、B29等による本土空爆の強化、これに附帯した謀略戦などである。
 また本土上陸戦がわが特攻隊のために被害甚大となるのを予想して、これを当分見合わせ、また空中よりの攻撃を強化する。右にのべた八月六日の広島市に初投下せる新型熱線有傘爆弾もこの一つの現われと見るべきである。
「さあ新兵器が現われたぞ、大変だ、大変だ」と、そう心臓をどきどきさせていては、敵がよろこぶばかりである。よろしく国民は一つの宿題を寄こされたつもりで、それと正面から取組み、それぞれの工夫において被害を最小限度化すべきである。
 政府及び軍部に対して希望するのは、よろしく士気を昂揚するようなことをやってもらいたいことである。たとえばB29を国民の目の前で撃墜するが如きことである。
◯闇値
 本は五倍乃至十倍
 米一俵千五百円
 砂糖一貫目七百円乃至千円
 下駄三十六円
 煙草「光」十本十五円
 軽井沢の生活費一人三千円乃至一万円

 当時原爆の効果と被害についてかなり正確な報道がなされていたことに驚く。しかしそれに対して、風船爆弾もV1号も特攻隊も新兵器だった時は効果があったが、対策がなされれば威力を軽減できたのだから、なんとかなると強弁するのは悲しい。

 八月九日(その二)
◯「今九日午前零時より北満及朝鮮国境をソ連軍が越境し侵入し来り、その飛行機は満州及朝鮮に入り分散銃撃を加えた。わが軍は目下自衛のため、交戦中なり」とラジオ放送が伝えた。
 ああ久しいかな懸案状態の日ソ関係、遂に此処に至る。それと知って、私は五分ばかり頭がふらついた。もうこれ以上の悪事態は起こり得ない。これはいよいよぼやぼやしていられないぞという緊張感がしめつける。
 この大国難に最も御苦しみなされているのは、天皇陛下であらせられるだろう。
 果して負けるか? 負けないか?
 わが家族よ!
 一家の長として、お前たちの生命を保護するの大任をこれまで長く且ついろいろと苦しみながら遂行して来たが、今やお前たちに対する安全保証の任を抛棄するの已《や》むなきに至った。
 おん身らは、死生を超越せねばならなくなったのだ。だが感傷的になるまい。お互いに……。
 われら斃《たお》れた後に、日本亡ぶか、興るか、その何れかに決まるであろうが、興れば本懐この上なし、たとえ亡ぶともわが日本民族の紀元二千六百五年の潔ぎよき最期は後世誰かが取上げてくれるであろうし、そして、それがまた日本民族の再起復興となり、われら幽界に浮沈せる者を清らかにして安らかな祠《ほこら》に迎えてくれる事になるかもしれないのである。
 此の期に至って、後世人に嗤《わら》わるるような見ぐるしき最期は遂げまい。
 わが祖先の諸霊よ! われらの上に来りて倶《とも》に戦い、共に衛《まも》り給え。われら一家七名の者に、無限不尽の力を与え給わんことを!
◯夕刻七時のニュース放送。「ソ連モロトフ人民委員は昨夜モスクワ駐在の佐藤大使に対し、ソ連は九日より対日戦闘状態に入る旨の伝達方を要請した」由。事はかくして決したのである。
 これに対し、わが大本営は、交戦状態に入りしを伝うるのみにて、寂《せき》として声なしというか、静かなる事林の如しというか……
 とにかく最悪の事態は遂に来たのである。これも運命であろう。二千六百年つづいた大日本帝国の首都東京が、敵を四囲より迎えて、いかに勇戦して果てるか、それを少なくとも途中迄、われらこの目で見られるのである。
 最後の御奉公を致さん。
  今日よりは かえり見なくて
   大君の 醜《しこ》の御楯《みたて》と
  出で立つ われらは
◯暢彦が英に聞いている。
「なぜソ連は日本に戦争をしかけて来たの?」
 彼らには不可解なことであろう。
 ふびんであるが、致し方なし。

 

 ソ連参戦のニュースを聞いて、とうとう海野十三は家族全員の死を覚悟する。このとき負けることを理解しているが、降伏ではなく、玉砕を意識している。

 

八月十日
◯今朝の新聞に、去る八月六日広島市に投弾された新型爆弾に関する米大統領トルーマンの演説が出ている。それによると右の爆弾は「原子爆弾」だという事である。
 あの破壊力と、あの熱線輻射とから推察して、私は多分それに近いものか、または原子爆弾の第一号であると思っていた。
 降伏を選ぶか、それとも死を選ぶか? とトルーマンは述べているが、原子爆弾の成功は、単に日本民族の殲滅《せんめつ》にとどまらず、全世界人類、否、今後に生を得る者までも、この禍に破壊しつくされる虞《おそ》れがある。この原子爆弾は、今後益々改良され強化される事であろう。その効力は益々著しくなる事であろう。
 戦争は終結だ。
 ソ連がこの原子爆弾の前に、対日態度を決定したのも、うなずかれる。
 これまでに書かれた空想科学小説などに、原子爆弾の発明に成功した国が世界を制覇するであろうと書かれているが、まさに今日、そのような夢物語が登場しつつあるのである。
 ソ連といえども、これに対抗して早急に同様の原子爆弾の創製に成功するか、またはその防禦手段を発見し得ざるかぎり、対米発言力は急速に低下し、究極に於いて日本と同じ地位にまで転落するであろう。
 原子爆弾創製の成功は、かくしてすべてを決定し、その影響は絶対である。
 各国共に、早くからその完成を夢みて、狂奔、競争をやってきたのだが、遂にアメリカが第一着となったわけだ。
 日本はここでも立ち遅れと、未熟と、敗北とを喫したわけだが、仁科[#芳雄。原子核の研究に取り組み、理化学研究所に日本初のサイクロトロンを建設した物理学者]博士の心境如何? またわが科学技術陣の感慨如何?

 この日の日記、海野十三がSF作家であることを再認識させられるものだ。原子爆弾であったという発表に「やはりそうだったのか」と納得するだけではなく、仁科博士を想起し、究極兵器たる核兵器の所有が覇権を決めるのだという、戦後長く続く現代のテーゼをここで提出しているのだ。そしてあらためて、戦争は終結だと言い切っている。つまり日本が負けたとこの時点で認識しているのだ。

 八月十二日
◯十日米英、首都において緊急会議開催と、朝刊が報じている。和平申し入れが討議されているものと思われる。
 いかなる条件を付したかわからぬが、国体護持の一点を条件とするものらしいことが、新聞面の情報局総裁談などからうかがわれる。
 午後二時迄に、その返答が米英から届くそうだと、新田君が来ていう。
◯とにかく、遂にその日が来た。しかも突然やって来た。
 どうするか、わが家族をどうするか、それが私の非常な重荷である。
◯女房にその話[#家族全員で死ぬこと]をすこしばかりする。「いやあねえ」とくりかえしていたが、「敵兵が上陸するのなら、死んだ方がましだ」と決意を示した。
 それならばそれもよし。ただ子供はどうか?
 子供も、昨日のわが家の集会を聞いたと見え、ある程度の事情を感づいているらしい。「残っているものを食べて死ぬんだ」といったり「敵兵を一人やっつけてから死にたい」という晴彦。
 青酸加里の話まで子供がいう。私はすこし気持ちがかるくなったり、胸がまた急にいたみ出したりである。
 暢彦[#次男]は学校で最近「七生報国《しちしょうほうこく》[#七たび生まれ変わって、国に報いるの意]」という言葉を教わって来たので、しきりにそれを口にする。私も「七生報国」と書いて、玄関の上にかかげた。
◯自分一人死ぬのはやさしい。最愛の家族を道づれにし、それを先に片づけてから死ぬというのは容易ならぬ事だ。片づける間に気が変になりそうだ。しかしそれは事にあたれば何でもなく行なわれることであり、杞憂《きゆう》であるかもしれぬ。

 八月十三日
◯朝、英[#夫人]と相談する。私としてはいろいろの場合を説明し、いろいろの手段を話した。その結果、やはり一家死ぬと決定した。
 私は、子供達のことを心配した。ところが英のいうのに、かねてその事は言いきかしてあり、子供たちは一緒に死ぬことにみな得心しているとのことに、私は愕《おどろ》きもし、ほっとした。そして英からかえって「元気を出しなさいよ」と激励された。
 事ここに決まる。大安心をした。
 しかしそうなると、どっと感傷が湧き出るとともに、さらになお、何かの誤りが責任者の私になきやと反省され、完全に朗かにはなりきれなかった。
 この夜も、よく眠れなかった。

[#この日、海野がしたためた遺書を、以下に引く]

 遺 書
一、事態茲ニ至ル
 大御心ヲ拝察シ恐懼言葉ヲ識ラズ
一、佐野家第十代昌一ヲ始メ妻英、長男晴彦、二男暢彦、三男昌彦、二女陽子ノ六名、恐レ乍大君ニ殉ズルコトヲ御許シ願フ次第也
一、一族憤激シ、絶頂ニ在ルモ、倶ニ抱キ朗顔ヲ見交ハシテ、此ノ世ヲ去ル
 魂魄此土ニ止リテ七生報国ヲ誓フモノナリ
一、時期急迫ノ為メ、親族知己友人諸兄姉ニ訣別スル余裕無カリシヲ遺憾ニ思フ、乞フ恕セヨ
一、御近所ノ皆々様、御挨拶モ申サズ、日頃ノ御礼言モ申述ベズ、御先へ参リマス御無礼ヲ何卒悪シカラズ御宥恕下サイ、御多幸ヲ祈ッテ居リマス
一、我等ノ遺骸ハ其ノ儘御埋メ捨テヲ乞フ、竹陵ノ眠ヲ覚マシ給フ勿レ、合掌
一、遺品等ノ処置ハ御面倒乍ラ左記親族或ハ知人ノ誰方カノ手ニテ然ルベク御処分相成度

 神崎昌雄殿(英ノ実兄)
  世田谷区世田谷一ノ一〇二七
 小泉佑一殿(昌一ノ実弟)
  豊島区千早町二ノ一七
 朝永良夫殿(甥)
  同居中
 永田徹郎殿
  香川県観音寺海軍航空基地気付
  ウ三三八士官室
 永田朝子殿(娘)
 永田正徳殿(婿ノ父)
  鹿見島市天保山町五八
 岡東 浩殿
  麻布区本村町二六
 中川八十勝殿
  同居中
 村上勝郎先生(友人)
  若林町四〇〇
 萩原喜一郎殿(大家サン)
 山岡荘八殿(友人)
  若林町一一〇
 大下宇陀児殿(友人)
  豊島区雑司ケ谷五ノ七一二
 柴田 寛殿(友人)
  世田谷区三軒茶屋一三一
 以上

 右 東京都世田谷区若林町一七九
    佐野昌一
[#引用、終わり]

 8月12日の報道から、国体護持を条件に和平交渉が行われると認識、そして妻と一家自決を話し合う。どんな気持ちだったんだろう。

 

八月十四日
◯万事終る。
◯湊(邦三)君と街頭で手を握りあって泣く。

 この、8月14日の日記がひっかかるのだ。この日、日本政府は連合国に対しポツダム宣言受諾、つまり降伏を通告しているが、国民にはまだ明かされていない。一般国民が終戦を知るのは8月15日の玉音放送である。14日の時点で「万事終わる」と書いている。しかもこの日の日記はこの二行だけで、特に説明がないのだ。海野十三は作家であり、出版社や新聞社ともつながりがあったわけで、ひょっとしたらそういう筋から、14日の時点で情報が入ったのかもしれない。いずれにせよ正式発表は8月15日であり、この日の日記には

 八月十五日
◯本日正午、いっさい決まる。[#戦争終結の詔勅を放送]恐懼《きょうく》の至りなり。ただ無念。
 しかし私は負けたつもりはない。三千年来磨いてきた日本人は負けたりするものではない。
◯今夜一同死ぬつもりなりしが、忙しくてすっかり疲れ、家族一同ゆっくりと顔見合わすいとまもなし。よって、明日は最後の団欒《だんらん》してから、夜に入りて死のうと思いたり。
 くたくたになりて眠る。

自殺を覚悟した海野十三だが、家長として家族を殺してから死のうと思ってたため、家族殺してる間におかしくなるかもとか悩んだり、知人に説得されたりして、最終的には思いとどまる。

八月二十四日
◯昨夜より今朝迄、十二時間に亘りて雷鳴つづく。
◯防空総本部より発表あり。敵爆弾による死者二十六万人(うち原子爆弾死者九万人)負傷四十万人。罹災者九百万人。これは樺太、台湾を除く人口の六分の一に当たる。都市戦災八十市、うち大半焼失せるもの四十四市なりと。
◯遠藤長官発表して曰く「戦前の飛行機生産高は月産五百機、昨十九年六月は三千機、本年になって工場疎開や爆撃熾烈の中にも一千台を維持し得たり」と。
◯米機、明日よりわが本土に監視飛行を開始する。
◯疲労まだ恢復せず、無理に起きている病人の如し。
◯電灯の笠を元どおりに直す。防空遮蔽笠(ボール紙製)を取除き、元のようなシェードに改めた。家の中が明るくなった。明るくなったことが悲しい。しかし光の下にしばらく座っていると、「即時灯火管制を廃して、街を明るくせよ」といわれた天皇のお言葉が、つよく心にしみてきて、涙をおさえかねた。
◯いかなる事ありとも、外出のときはやはりもんぺをはくべし、と命令し置く。
◯暗幕はそのままにして置く。外から覗かれぬよう、また時にはあたりを暗くして置く必要ありと、思いしが故である。
◯手紙を書くことを極力ひかえつつあり。

 ラジオが戦争の総括を話していること、灯火管制をやめたことなど、戦争の終わりが日記に現れてくる。「外出のときはやはりもんぺをはくべし」は、妻やお手伝いが暴行されないようにという思いだろうか。米軍がやってきたらどうなるか、いまだ不安が大きかったのだろう。

八月二十六日
◯昨二十五日、果して米軍機、監視飛行を始める。台風気味の低雲をついて、全身を鉛色に塗ったグラマン、二機以上の編隊でしきりに飛ぶ。子供はよろこぶ。
◯天候のため、連合軍の上陸は、四十八時間順延となった由。
◯十七日信州では「陸海軍に降伏なし、日本航空隊司令官」と伝単[#宣伝ビラ]をまいたそうな。
◯井上康文[#口語自由詩で、民衆の現実を描こうとした、「民衆派」の詩人]君の詩、昨二十五日夜放送さる。いやな気がした。われら当分筆を執るまい。
◯中川八十勝君、昨夜郷里広島へ出発。家族は大竹ゆえ、たぶん心配はないと思うが、友人、知己、親戚など広島に多く、この方が気がかりと見える。広島の死者は三万から九万にふえた。負傷は十六万だった。二十五万の広島でこれだけの死傷が一時に発生したのであるから、そのときの惨状は地獄絵巻そのものであったろう。誰かその画を描き、アメリカ、イギリスなどへ贈呈してはどうかと思う。
◯今日は放送二つを聴いて、洗心させられた。一つは陸軍大臣下村大将の「陸軍軍人及び軍属に告ぐ」の平明懇切なる諭《さとし》、もう一つは頭山秀之氏の「新日本への発足」という話で、日本の負けたのは敗戦のはじらいと苦しさを知らざりしによるとなし、この上は堂々と負けて、責任ある支払いをなし、敗戦という宝物を生かして行こうという。涙が出て来て仕方がなかった。両氏とも、昔なら検閲にひっかかる底のつっこんだ話をした。こうなくてはならない、本当のものを発見し、自覚し活用するには。
海野十三は死んだ。断じて筆をとるまい。口を開くまい。辱かしいことである。申訳なき事である。

 「昔なら検閲にひっかかる底のつっこんだ話をした。こうなくてはならない、本当のものを発見し、自覚し活用するには。」

戦争体制を疑ってこなかったはずの作家である海野十三が、自由に物が言えることに感動し、自分を恥じるという、すさまじいエピソードだ。

 

九月二十四日
アメリカ合衆国日本州の感深し。誠に東京は、その感いちじるしきものあり。
 しかしアメリカ軍の諸事業(アメリカ軍のためのもの)は、いずれも適切なものばかり。私がかつて戦争中、大いに進言、力説したところのものが、今アメリカ軍によって行なわれるのを見て感慨無量だが、お役人や軍人指導者達もさぞや別の意味で感慨無量であろう。とにかく人間研究を怠り、民生を尊重せず、熊さん八つぁんを奮い立たせるように持って行かないで大戦争を経営した彼らは確かに愚かであった。

 僕は昭和39年の東北産まれなので、占領中の雰囲気を直に味わってはないのだが、当時の東京の様子を見ると米兵が溢れ、英語の看板だらけという、まさにアメリカ合衆国日本州みたいに見える。そのラジカルな変化、そして戦時中に「なんでこうできないんだ」と歯噛みしたようなことがアメリカの手によってどんどん進められる状況を見た海野十三にとっては、すごいカルチャーショックだったのだと思う。

 

日記の中で度々喀血し、床に伏せる海野十三。彼は昭和24年に結核で死亡する。日記はその年の6月4日で終わっている。