カール大帝がフランスではシャルルマーニュ。マーニュはどこから来た?

 西ローマ帝国崩壊後のヨーロッパ西部を統一し、ローマ皇帝として戴冠したフランク王国カール大帝。これ学校で習う時、「フランスではシャルルマーニュ」と習ったよね。カール=チャールズ=シャルルだと思うのだが、じゃあ「マーニュ」はどこから来たんだ?

 

 シャルルマーニュのスペルは Charlemagne 。シャルル=Charle、マーニュ=magneと分解できる。じゃあmagneってなんだと思うと。ラテン語のmagnusが変化したものらしい。ラテン語カール大帝は、CarolusまたはKarolus Mugnusというそうな。magnusとは「大きい」「偉大なる」って意味で、英語で言うところのgreatと同じである。カール大帝を英語表記するとCharls the Greatなので、結局のところ「the Great」の部分をくっつけてしまったものがフランス語のシャルルマーニュなのだろう。

 

 カール大帝の帝国は現在のフランス、ドイツ、イタリア全土を占めていたので、これらの国のみんなが自国の始祖として彼を認識しているわけだけど、こういうのは島国の日本にはないよなあ。

 

豆知識:拳銃の強力な弾丸につけられる「マグナム」はもともとワインの大瓶につけられた呼び方で、語源はラテン語のmagnum。これはmagnusの格変化である。ちなみに英語で最大を表すmaximumも。magnusの格変化のmaximusからきてる。

ブルース・リー「死亡遊戯」って、もとのプロットと全く違うのな

 1978年に公開された「死亡遊戯」という映画は、ブルース・リーが死んだために未完成のままになってて、代役を立てて完成させたと、当時宣伝されてたし、そうなんだーと思ってた。実際劇場に見に行って、まあストーリーの破綻とかもなく悪のボスを倒して終わりと、そこそこ楽しんだし、当時日本ではかなりヒットしたと記憶している。大体のストーリは以下のようなもの。

 

 映画スターのビリー・ローが、やたらと俳優とかスポーツ選手囲い込んで暴利を貪るシンジケートの勧誘を断り続けてたら、撮影中に射殺されかける。顔に怪我を追ったものの命は助かるが、死んだことにして変装し、戦いを挑むというもので、敵の本拠(香港のビル)に乗り込むと、中は木造の妙に狭い作りで、階ごとに格闘家が守っている。これらを倒していき、最後にボスをビルの屋上から落として殺す。

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 ところが、もともとのリーのプロットは、主人公は俳優ではなく無敗の格闘家。家族を人質に取られ、韓国にある五重塔(各階を格闘家が守っている)の攻略を報奨付きで強制されるというもの。78年版では一人で乗り込む塔に、もとのプロットではパーティーを組んで挑むらしい。なぜ設定が格闘家から俳優になったのかというと、まるでフィルムが足りず、今までの作品から引用するためにブルース・リー本人を置き換えたビリー・ローという俳優にし、「ドラゴンへの道」や「ドラゴン怒りの鉄拳」を撮影しているシーン(と完成フィルム)を挿入することで尺をもたせたというわけだ。

 なお、もとの設定では塔での戦闘は昼間だったらしく、サングラスの巨人、カリーム・アブドゥル・ジャバーが光に弱いという要素があり、リーが破った障子からさす光によろけ、そのすきを突いて倒すという展開があるのだが、ラストを夜にしたためか、このシークェンスはカットされている。

 

 撮影当時のフィルムのOKカットをつないだものがのちに公開されている。

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ジャバーを倒した後、よろよろと窓に近寄り

「ゲームは終わった」と叫ぶリーに対し、外から

「ゲームはまだ終わっていない。外に出て戦え」と声がかかる。

「無理だ!」と返すリー。階段を降りているとまた

「急げ、お前と戦うために敵が待ってるぞ」と声がする。

「今度は何だ?!」と叫ぶリーに

「このゲームは我々が死ぬまで終わりはしない」と返事が帰ってきてフィルムは終わる。サングラスの大男を倒した後上には登らないのだ。そういえば78年版で、この上に登るシーンから代役になってて声も顔も全然違うんだよな。ちょこちょこリー単独カットで本物を挟んではいるんだけど…

なんとも気になるが、この後どうなるのかさっぱりわからない。プロットではこのあと

  • 逮捕
  • 飛行機

と書いてあって終わっているらしい。本当の、ブルース・リーが作るはずだった「死亡遊戯」がどうなるはずだったのか、興味深い。

 

OSX以前のMacにおけるUNIX

 スティーブ・ジョブズが帰ってきてMacOS Xが登場するずっと前から、MacUNIXまたはUNIXっぽいものを動かす試みはあった。

 

  • A/UX

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/9/93/Apple_Unix_with_Netscape.jpg


    Apple純正のUNIXである。System/V系BSDの要素も足した結構しっかりしたシステムだった。一見MacOSの上にUNIX要素を足したように見えるが逆で、UNIXシステムの上にMacエミュレーション層を置いていた。ファイルシステムMacのHFSではなくUFSで、その上でリソースフォークやメタデータを扱うために、AppleDoubleという方式が用いられた。
    68kMac用で、FPUとPMMUを必要としたため、動かない機種も多かったらしい。大学などで使われた。

  • Mac MiNT

    http://gunkies.org/w/images/d/d6/MacMiNT.png

  • Atari ST純正OS、TOSをマルチユーザーマルチタスクにしたMiNTというUNIX風OSを68kMacに移植したもの。Macの上で一つのアプリケーションとして動いた。これは僕もインストールして遊んだことがある。マルチタスクをどうやっていたのか覚えていないのだが、垂直回帰線割り込みあたりを使っていたのだろうか。TCP/IPなどが使えず、Xもなかったので、コンソールで複数コマンドをパイプで繋いで遊ぶくらいしかできなかったが、結構楽しかった。WindowsでいうところのCygwinみたいなものだろうか。

  • NetBSD/Mac68k

    http://www.axe-inc.co.jp/bsd/doc/mac68k/mbzu11.gif
    本格的なオープンソースUNIXの初めてのMac移植。当時FreeBSDIntel系で安定して動くことに注力していたが、NetBSDは移植性を高め、対応機種を増やすことに注力していた。そこで登場したのがMacBSD。少ししてNetBSD/Mac68kと名前が変わった。A/UXもそうだったはずだが、MacのハードウェアはBIOSがなく、いきなりMacOSのSystemファイルを読み込む仕様になっていたので、MacOS以外のOSをまともに動かすのは難しかった。なので、OS起動中に読み込まれる機能拡張書類がBSDカーネルを読み込み、メモリを占拠して起動するようになっていた。X11もあったが、当時まだまともなデスクトップ環境がない時代で、TWMで動くだけだったので、GUIを使ってもMacOSに比べてなんかしょぼい。

  • MkLinux

    http://www.tcp-ip.or.jp/~aoki/info/linux/images/dr2-5.gif

    PowerPC採用後のMacにおいて、移植が試みられたUNIX系OSMachマイクロカーネルLinuxサブシステムを搭載したもの。AppleとOSFが協力して開発されていたが、商品化されずに収束した。
    ベータ版として公開されていたけど、普通に使えたと記憶している。

これらのうち、商品化されたのは、A/UXのみだったと思う。しかしこれほどUNIX系の移植が試みられたことがあったという事実。現代のMacユーザーの多くは知らないのではないだろうか。

 

宮﨑駿がよく言う、ルパン三世が殺人をしないとかいう話

あれ真っ赤な嘘。

 

 アニメのルパン第一シリーズ第一回では、ルパンファミリーを敵視する犯罪組織スコーピオンを壊滅させ、ボスと手下を感電死、焼死させてる。第二話では魔術師白乾児を焼き殺してる。

 いやどっちも後のシリーズやOVAで「実は生きてた」みたいに復活するけど、あきらかに殺そうとして殺してる。

 そんで第四話の「脱獄のチャンスは一度」。死刑を待つルパンが看守を身代わりに逃げるとき、看守が身代わりに死刑になるであろうことを銭形に言って脱出するが。そのことに罪悪感なんか微塵も感じていない。

 第五話の「十三代目五ヱ門登場」では、五エ門とルパンが殺人世界一を競って戦う。

 

宮崎駿は、自分の手を離れた第二シリーズ以降ルパンが人殺しするようになったみたいなこと言ってるけど、宮崎が参加する前はしょっちゅう人殺ししてたのだルパン三世という男は。確かに第一シリーズで、宮崎、高畑がメインになった後半はコメディ色が強まり、殺人を犯すようなことはあまりなくなるのだが、宮﨑駿はあくまで初期のハードボイルド路線がうまく行かなかったから大塚康生に呼ばれて助っ人に入ったわけで、別にルパン三世という作品はあなたのものではないよ。

 

 いやカリ城大好きだし、第一シリーズ後半の抱腹絶倒なルパンは子供の頃の最高の思い出だけどね。でもなんか「ルパンという男は」と大上段に言われると反発するよなあ。

 

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征夷大将軍は本来東方の蛮族を征伐する役職

 「征夷大将軍」は、源頼朝鎌倉幕府を作って以降、日本の政治的トップの称号になっていったけど、もともとの「征夷」は東夷を征する意味である。

 もともと中華思想で、世界の中心たる中華の周囲を囲む蛮族を東夷、西戎、南蛮、北狄と呼称したものを日本に引っ張ってきて、畿内から見て関東、東北太平洋方面を東夷、日本海側を北狄、四国、九州方面の西日本を西戎に見立てて、東北方面侵攻の責任者を征東将軍、征夷将軍とし、日本海側に対しては征狄将軍、九州方面は征西将軍をたてていた。征東将軍がやがて征夷将軍征夷大将軍と変化したので、東の文字が消えているが、征夷大将軍はあくまで「東夷」に対する軍事的役職だった。東北の蝦夷を平定した坂上田村麻呂などが有名だ。

 

 藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こした時、藤原忠文征西大将軍に任じられたりしてるので、東の征夷大将軍に対応する役職は西にもあった。

 

 こういった古代の将軍職は、都から離れて目的の敵に対応する限りにおいて、天皇の代理として行動することが許可されており、中央の手が届かない地方においては、最高権力者として振る舞うことが出来た。ただし、あくまで敵を倒す戦争中において任じられる臨時職のようなもので、将軍を世襲するようなものではなかった。

 

 坂上田村麻呂蝦夷を平定したあと、陸奥国鎮守府が置かれ、ここに軍権を掌握する鎮守府将軍という役職ができる。征服地を軍政で支配していたわけだ。鎮守府将軍の地位を得た奥州藤原氏は、事実上朝廷から独立した王国の如きものを作っていた。もちろん朝廷や有力貴族に奥州の金や毛皮等贈答して懐柔する努力あってのものだが。

 

 鎮守府将軍の力が及ぶ範囲は陸奥、出羽に限られていた。源頼朝鎮守府将軍藤原氏の奥州支配のやりかたをしっかり勉強していたはず。では藤原氏を滅ぼして自分が鎮守府将軍になればいいのか。頼朝の本拠は関東であって奥州ではない。奥州鎮守府に結び付けられた鎮守府将軍ではなにかと不自由だろう。また、当初朝廷からもらった権大納言、右近衛大将は参内の義務があり、関東支配にはむかなかった。近衛だから朝廷を守る軍隊を指揮しなきゃいけないのだ。

 

 頼朝は自分から征夷大将軍の地位を希望していた。もともと戦時臨時職であり、坂上田村麻呂以降誰も任官していなかった役職だ。正確には、大将軍でない征夷将軍や征東将軍は存在したが、征夷大将軍は300年位出てない役職だったのだ。なんか昔話のえらい将軍みたいな感じである。頼朝はそれを欲しがった。鎮守府将軍みたいに支配地が決まっていない。かつ現地総司令官としてあらゆる行動が委任される。頼朝、「やべえ、これ最強じゃね?誰も気付いてない?俺だけ?征夷大将軍なっちゃおーかー」みたいな感じだったのだろうか。

 

 実はちょっと前に源義仲征東大将軍の位をもらってる。朝廷は平氏に牛耳られてた状態を嫌がって源氏に助けを求め、最初に京都を開放したのが義仲だったわけだけど、こいつ京都でさんざん横暴働いて「関東の武士は礼儀を知らない乱暴者」ってイメージを作り上げちゃった。同じ源氏の頼朝としては「あいつより偉い官位もらわないと」って意識もあったんだろうね。征東大将軍征夷大将軍、どっちが偉いのかよくぅあからないけど。いろいろあって征夷大将軍をもらう。はたして朝廷はこれが世襲の政治的トップのちいになると考えてたろうか。あくまで頼朝個人に褒美として与えたつもりだったんじゃねえのかな。

 

 後の時代に征夷大将軍の政府を「幕府」と呼ぶようになるけど、「幕府」ってもともとは戦争中に天幕貼った臨時司令部の意味だったんだよな。

 

 んで、頼朝は義経が逃げ込んだからと奥州藤原氏を討伐しちゃう。これ、藤原氏が頼朝の圧力に屈して義経殺して首を送ったのに、「今まで匿ったし、勝手におれの弟殺すとはなにごとか」って因縁つけて当時京都以上と言われた平和な平泉を焼き滅ぼし、御家人の褒美に奥州を分配しちゃう。奥州にしたらたまったもんじゃねえ。

 

 そんな身勝手な侵略しといて「東夷を撃滅したから征夷大将軍くれ」だよ。頼朝何様だよ。俺様だよ。そもそも義経討伐令も、頼朝が朝廷に圧力かけて出させたもんだしな。

 

 そんなこんなで成立した鎌倉幕府、当初は東国しか支配してなかったらしい。徐々に京都に六波羅探題とか置いて陰湿に公家と皇室をいじめていくけど。

 あと守護、地頭の配置で貴族の荘園を徐々に削ってったり。なんだかんだで日本全国を支配するようになるころには頼朝の子孫が途絶えて北条氏の執権政治になっていくのだが。ざまあみろ頼朝。

 

 でさ、なんか後の時代に征夷大将軍は源氏じゃなきゃみたいな話になるじゃん。あれなんで?坂上田村麻呂は源氏じゃないだろ。平氏の信長に征夷大将軍が朝廷から提示された説とかあるじゃん。やっぱ事実上朝廷政府を無力化して武家政権作った頼朝を元祖とみなすから?

 

 なんていうか、清盛の平氏政権は朝廷に食い込んで専横する形だったけど、頼朝の幕府政権は朝廷から変に独立してるじゃん。その後室町も織豊も徳川も朝廷のシステムを解体はせず、それと別に現実的な支配をしてるんだけど、ずーっと朝廷には政治官僚システム残ってたんだよな。明治時代まで律令が存続してて、行政官もずーっといる。でもこれなんか実際に国の政府としては機能してなかった。なんだろこれ。明治維新のときも、これまでシステムが残ってたからこそ天皇太政官の政府を速やかに作れたわけだろ。朝廷なにものだよ。

運営してるWebサイトをFreeBSD10.3から11.0にアップデートした

基本的には公式サイトの

FreeBSD 11.0-RELEASE Announcement

を見ればいいんだけど、日本語で更新手順を知りたいならBSD四方山話の

gihyo.jp

の通りにすればいい。記者は後藤大地さんである。後藤なら信頼できる。なにせ僕も後藤だからな。

ところが、うちのばあいこの通りでうまくいかなかった。

freebsd-update  upgrade -r 11.0 RELEASE

の実行中にエラーになるのだ。原因を調べたら、うちのサイト、FreeBSD10.3の最新バージョンになっていなかった。日頃のアップデートをきちんとやっていなかったという話になるのでどこで止まっていたかは秘密だが、11.0へのアップグレードをするためには、FreeBSD 10.3-RELEASE-p10まで上がっていなくてはいけないようだ。なのでまず、

freebsd-update fetch

で10.3の最新を入手し、

freebsd-update install

shutdown -r now

 

その後上記手順で11.0にアップグレード。

ちゃんとFreeBSD 11.0になったのはいいのだが、この過程でPHPImageMagickラッパーライブラリ、pecl-imagickが消えていた。うちのサイトはPHP7+nginx+Wordpressで運営しており、Wordpressの動作にImageMagickは必須ではない。なければGDを使用して画像の拡縮を行うのだが、ImageMagickの方がより綺麗に縮小などできるとされており、できれば使いたい。なのでpecl-imagickを改めてインストールしようとしたのだが、これを入れようとすると、pkgでもportsでもPHP7を無視して、PHP5.6をインストールしようとしやがる。どうも決め打ちでPHPのバージョンを5.6とみなしているようだ。

なので、/etc/make.confに

DEFAULT_VERSIONS+= php=7.0

の行を追加して、portsからmake install。これでなんとかなった。

 

今後PHPのバージョンが7.1とかになったら、/etc/make.confも書き換えないといけなくなりそうなのでめんどくさい話だが、一応ここに書いて備忘録にしておこう。

パピルスと現代の紙の間になぜ羊皮紙の時代があったのか

 文書を記録する媒体として最も古いのは古代オリエント地方で使われた粘土板であろう。古代の楔形文字はそもそも粘土板に記録するのに便利な文字として発明されている、棒を粘土に押し付ければ書ける文字なのだ。

 

 次にエジプトでパピルスが発明される。これは水草の茎の表皮を剥いで伸ばし、水につけて発酵させ柔らかくしたあとに、縦横に並べて圧力をかけ、乾燥させることで完成する。植物繊維を結合させて薄い板状にするという点で現代の紙に近い。ちなみに紀元前3000年位にはあったらしい。パピルスは軽く、粘土板のように割れることもなく柔軟で、巻物にして持ち運びも容易という優れた特徴を持っていたので古代世界でかなり普及した。ローマ帝国物の映画などで見られる巻物もパピルスである。ただ、当時も巻物の一番外側を保護するために動物の皮を加工した羊皮紙を使っていたという。おそらく羊皮紙は高価で、パピルスのほうが安かったのだろう。現代的な置き換えをするなら、本の本文用紙はパピルス、表紙は皮という感じだったのではないかな。

 

 中世ヨーロッパに羊皮紙の使用が広まったのは、パピルスがエジプトでしか作られなかった(原料の水草がアフリカで栽培されてることもあった)ことが大きい。エジプトで制作して各国に輸出されていたのだ。次第に需要が増えた紙の用途を満たせなくなり、2世紀にアレクサンドリア以上と言われた図書館を擁した小アジアベルガモンへの禁輸措置が採られる事態になる。このときベルガモンでは、パピルスに替わる紙として羊皮紙に注目。普及させたと言われている。まあ、これ以前から羊皮紙の採用は増えていたらしく、この話は後世のこじ付けではないかという話もある。どっちにしろ、パピルスのエジプトから離れた地域での入手が難しくなり、羊皮紙製造が増えた結果切り替わっていったのだろう。羊皮紙はパピルスに比べれば厚く、インクの染み込みが浅かったので、書き損じた部分は削って書き直すことができた。そういう利点もあった。

 

 さて、現代の紙の直接の祖先は中国での紙の発明だろう。これは紀元前150年頃の紙が出土しており、だいたいそれ以前に発明されたものと思われる。史書の上では起源後105年に発明されたことになっている。パピルスよりはずっとあとで、羊皮紙とだいたい曖昧に似た時代に発明されてるっぽい。初期の頃は樹皮とボロ布から作ったとされてるが、要するに植物繊維をバラバラにして漉くという手法の元祖がこの頃産まれたのだろう。ところで、中国で紙が普及する以前は、竹を細く切ったものをつないで巻物にしていた。パピルスと同様、東洋でも当時は書物といえば巻物だった。

 

 中国の紙が西洋に伝わるきっかけは、現代のキルギスにあたる地域で、アッバース朝と唐が戦ったタラス河畔の戦い(751年)で、唐の製紙工が囚われたことらしい。その後、イスラム世界から西欧に伝搬していく。ちなみに日本に紙が伝わるのが7世紀なので、西洋よりはちょっと早いw。

 

 で、だいたい12世紀にイタリアやフランスで製紙工場が作られるようになるが、まだ公文書は羊皮紙が使われていた。おそらくグーテンベルク活版印刷が登場する15世紀あたりから、紙の需要が高まっていき、大量生産、価格の低下が起こっていったのではないかと思う。

 

 パピルスと中国紙は、それぞれ全く独立して発明された。時代も違う。しかし、使い勝手は極めて近かったと思う。なぜパピルスから中国紙にいかず、途中に羊皮紙文化が入ったか。結局ローマ帝国崩壊によって国際物流が途絶えたことによって、微妙に使い勝手の違う羊皮紙がパピルスを駆逐してしまった。羊皮紙は言ってしまえば羊の皮をなめす技術がある地域でなら作ることができる。パピルス入手の高コスト化、入手難が、羊皮紙を工夫して使う流れになり、ついにはパピルスの製造が途絶えるまでになった。エジプトでのパピルスの製造はほそぼそと続けられていただろうけど、国際的に影響力を保てなくなった。そして現代の樹木の繊維を使う紙がより低コストで高品質になっていった。いまではパピルスはエジプトの土産物でしかない。