ミームと宗教。そしてちょっとだけコンピューター
人類は脳を発達させ、言語を発達させ、抽象概念を発明し、文字を発明して記録を残せるようになった。遺伝子的、肉体的に我々ホモ・サピエンスは10万年前とほとんど変わらないはずなのに、生活や文化がまるで違う。これはまぎれもなく進化論的現象であり、この時間ではあまり変化していない遺伝子ではなく、我々人類が次代に伝えてきた情報こそがこの変化の主体となった遺伝子的存在である。そしてそれを担う情報の単位をミームと言う。ミームは脳から脳へと伝わる過程で変異し、淘汰される。
ミームと言う概念は、進化生物学者のリチャード・ドーキンスが「利己的な遺伝子」という著作で提唱した概念なのだが、僕はもっともらしいけど微妙じゃないかなと思ってた。その僕が「うわあ!これミームだ」と思ったのは、SF作家の山本弘先生が見出した「棒の手紙」の変遷だ。元祖チェーンメールともいうべき「不幸の手紙」。それが複製されていくに従って文字の汚さから「不幸」→「棒」と「突然変異」を起こす。不幸の手紙は、不幸になるのを避けるために複製と配布が必要とされており、それが生き残り戦術だったはずなのに、「不幸が訪れます」が「棒が訪れます」に変異しても即座に感染力を失わなかった。確かに棒が訪れたらなんか怖い。肉体の遺伝子にしても、ある環境で役立っていた表現型が変異によって役立たなくなるとして、即座に淘汰されるわけではなく、それはそれで特定の環境において生き残りに繋がったりする。赤血球が棒状になる「鎌状赤血球」という遺伝疾患は酸素運搬の点で不利であり、普通の赤血球をもつ人より生存能力は低いはずだが、マラリアに強い耐性を持つため、熱帯地域では有利だったりする。「棒の手紙」は「不幸の手紙」のわかりやすい恐怖より「わけのわからない恐怖」もしくは「なんだかおもしろくなっちゃった」で感染力を獲得したのだろう。
さて、僕が思うに人類のミームで最も古く、またもっとも強力なものは「神」もしくは「宗教」の概念だと思う。宗教は少なくとも古代都市国家を支配した原理になっていたし、現代でも十分に強い。そして時代の変遷の中で変異し、淘汰されてきている。
ユダヤ教の神はもともと古代オリエントのアブラハムやヤコブ、イサクといった祖先を祀る部族の神だった。古代宗教にありがちな「うちの神」信仰で、おそらく周辺の他の神々と張り合う「一柱」であったろう。その民族をまとめたモーゼが「かつてアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とよばれた『ありてあるもの(ヤハウエ)』」という名前を与え。「他の神々を崇めるの禁止」戒律を作り、やがてキリスト教の理論武装に従って「他の宗教の神々は嘘、あれ悪魔」って感じに変異していく。
ゴータマ・シッダールタは「不幸の源は生老病死への執着だから、執着を捨てよ」と至極あたりまえのことを語った。死後の事を問われて「死んだ人がなんか言った?そんなこと考えたら苦しいだけじゃね?」と答えなかった。なのにゴータマ死後の仏教は六道輪廻という教義を作り、宗派ごとに「悟りに至るのは難しすぎるから阿弥陀仏にすがって南無阿弥陀仏を称えよ」「今までの教えは方便だった。ゴータマは死ぬ直前、とても死にそうな人が残せないような長大な法華経を言い残した」「ありがたい南無妙法蓮華経の題目を称えよ」ってな具合にいろいろ祭り上げて「これをやっとけば死んでも大丈夫」「葬式で坊さんに大金払えば死んだ家族の成仏が約束され、上流階級みたいな戒名もらえる」という方法を作り出した。これも変異と淘汰に生き残ってきたミームである。
コンピューター業界はそのはじめから膨大な労力と費用を必要としたのだが、低コスト化が進んだ1980年代以降、個人がアイデア次第で起業して大儲けという一括千金型の流れと、「ソフトウェアは本質的に自由であるべき、ハックすることこそ自由である」と主張する流れが発生している。前者は経済原理に基づくミームなのだが、後者は宗教と同様のミームを感じる。ソフトウェアの自然淘汰がどちらかを絶滅に追い込むのか、草食動物と肉食動物の軍拡競争、赤の女王仮設に従って双方発展していくのか、興味深い。