深夜TVクロージング天気予報と犬神サーカス団

 チャンネルは覚えていない。深夜TVで音楽PVを流しながらテロップで「明日の天気」を流す番組があった。確か一週間、あるいは一ヶ月くらいあったかもしてない。同じPVを流し続けたと思う。

 

 漫画家という自由業の僕は、夜型生活を享受してたので、深夜から朝方、TVをつけっぱなしにして仕事をしていたわけだが。あるとき毎日天気予報とともに流されるPVにはまっていた。

nicoviewer.net

 犬神サーカス団の 鎮魂歌~レクイエム~である。言っちゃ悪いがこのバンドはインディーズ系で、一時メジャーレーベルと契約してたときもこれといってメジャーヒットを飛ばした記憶はない。だが毎日深夜にこのPV見てみろよ。すげえ記憶に残るって。

 

 というわけで、音楽会社は深夜の天気予報をスポンサードして毎日同じPVを流すスタイルを復活させるといいんじゃないかな。

悪役令嬢婚約破棄もので嫌な作品傾向

「小説家になろう」などのWeb小説サイトで一時期流行した「悪役令嬢もの」がある。基本プロットは以下のような感じ。

 乙女ゲームの世界の悪役令嬢が主人公。なお、この場合の「乙女ゲーム」とは、女性主人公が高貴でイケメンな男性達と真実の愛を育んでハッピーエンドを目指すもの。光栄のアンジェリークあたりを元祖とする女性向け恋愛アドベンチャーが基本になっているのだけど、小説サイトで流行するにあたって独自進化を遂げている。

 

 現代日本の大企業社長一族が通う上流階級向け私立学園というパターンもあるけど、多くは中世ヨーロッパ風異世界の貴族社会で、貴族が通う王立学園が舞台。しかし優秀な平民も通っている。

 ゲーム設定に置けるヒロインは平民もしくは子爵、男爵などの下位貴族令嬢。攻略対象は王子と宰相子息と騎士団長子息と王宮魔道士子息あたりが定番。隠し攻略対象として身分を隠して留学している隣国の皇太子なども用意されている。メイン舞台が王国なのに対し、隣国はより強力な帝国であったりするパターンも多い。隠しキャラを攻略するためにはメイン攻略キャラを全員攻略しないといけないと言うゲーム設定もある。

 

 ヒロインの攻略するキャラにはもともと婚約者がいる。貴族社会なので政略結婚であり、真実の愛情はないものとされている。攻略対象たちは妾腹であったり家族の不和であったり才能に対するコンプレックスであったり、幼少時の事故によるトラウマであったり、なんらかの心の闇を抱えており、それをヒロインがフォローすることによって好感度が上がるものとされている。

 

 で、悪役令嬢ものというのは、その場合の上位貴族や王族の婚約者で本来のゲームでは嫉妬に狂ってヒロインをいじめ倒す公爵令嬢を主人公としたものだ。多くの作品で、現代日本人オタクOLの女子が、自分がはまってた乙女ゲームの世界の悪役令嬢に転生してしまい、ゲーム通りならヒロインをいじめて爵位剥奪や国外追放、はては死刑になるという運命を知っているので攻略対象とかかわらないように頑張るが向こうから寄ってきてやはり婚約されてしまったり、ヒロインをいじめなければいいと思っていたらヒロインが自作自演で「差別的な事を言われた」「教科書を汚された」「私物を隠された」「階段から突き落とされた」という架空の犯罪を自作自演で作り上げて「悪役令嬢糾弾イベント」を作り上げる。糾弾イベントは学園の創立記念とか卒業パーティとかのはれやかな舞台で唐突に行われ、ヒロインと王子含め攻略対象子息達が提出する証拠はヒロイン本人の証言だけみたいな雑なもので、婚約者王子とは別の王子とか、王室の調査機関とか、隠し攻略対象の隣国皇太子に真実をあばかれ、冤罪を作ったヒロインはざまあ。ヒロインに踊らされた王子は茫然自失。廃嫡され荒れ地に臣籍降下され封じられるというオチが待っている。もちろん冤罪をきせられた公爵令嬢は王や王妃に謝罪され、あらたに王太子になった王子や隣国皇太子に嫁ぐことになる。

 

 いやこれおもしろいのだ。最初にこのパターン作った人偉いと思う。ようするに冤罪を押し付けられてそれを解消し、幸せになる話だから。普通に面白い。

 

 だが、これが流行した結果これをベースとしてひねった話が生まれる。そりゃ流行に乗っかって全く同じ話を発表したら芸がないからね。で、うまれたのが、王子やヒロインが、公爵令嬢の「前世の記憶」にあえて乗っかって悪者を演じるパターン。そもそも窮屈な王になるのを避け、地方領主くらいの自由度を望み、作品世界では妄想としか思えない公爵令嬢の電波思考(前世記憶)にあわせ、悪役を演じて婚約破棄を「してあげる」。これは王子と攻略対象とヒロインが「全部わかってる本当の主人公」という逆転パターンだ。しかし意外性を狙って冒頭は不当な婚約破棄劇をあえてやっている。

 もうひとつのパターン。最終的にヒロインと王子の企みを挫く別の王子や隣国皇太子が、悪役令嬢に惚れた結果。本来悪ではなかったはずの王子やヒロインに裏で自作自演のやらせを示唆し、公爵令嬢糾弾をつくりだし、さっそうとそこから救い出し、王子やヒロインを罪に落とす。この場合悪役令嬢と最終的に結ばれるのは腹黒王子、皇太子ということになるのだが、なんだかこの「腹黒男子の手回しでもともと害意を持ってなかった人たちを悪に落としても、ヒロインを愛する」みたいなのって、意外と需要あるっぽいんだよ。どう弁護しても行き過ぎのおとり捜査、どころじゃない極悪非道な行いじゃない。これを作品の結末として提出して、感想欄でも罵倒されないって考えられねえ。人間の意志をなんだと思ってんだと。

 

 そういや「婚約者を愛していたけど相手は自分のこと嫌いだと思う。だから嫌われて離縁され、婚約者が真に愛する人と幸せになってもらいたい」みたいな自己犠牲主人公の気持ちを誤解した挙句ヤンデレ婚約者が「そんなに嫉妬されたかったの?」とかいって主人公を地下室に監禁。それで幸せみたいな小説も見かけるんだけど、君らそれでいいのか?なんなんだあの人権侵害。他者をわざわざ不幸にしたり、地下室に監禁されるのが本当の愛だみたいなの、死ねばいいと思うよ。僕はいくら底が浅いと言われても、普通の幸せがいいと思うなあ。

ダーウィン進化論と日本独自の進化論

 ダーウィン(とウォレス)の進化論は、遺伝子の発見以前のものなのだが、そのアイデアは驚くほど有効だ。それは非常にシンプルな考え方に基づく。

 

  • 生物は自分より多くの子を作る。
  • 子は親に似ているが僅かな変化がある。
  • 生存環境において親より優れた個体は生き残りやすい。

 

 捕食関係や、栄養資源の争奪が起こっている状況では、たったこれだけの条件で自動的に進化が進むことになる。大体の場合生物の数はバランスが取れている。つまり親よりいかに多い子が生まれても、捕食者に襲われたり、餌を得られず死んでしまう。その結果、より生き残りに向いた個体が生き残って次の世代を生むことになる。この過程が自然選択と呼ばれる。なお、世代ごとの変化は基本的にごく小さいものになる。分子レベルの化学反応によって起こる変化は、それほど大きなものにはならない。Xメンみたいに突然目からビームを放てるようになることはない。夢がない話だが、大きく変異した場合は生物としての機能不全の方にいってしまう。生物進化の歴史で、複数の種が成立している段階ですでにその時代の環境に適応するような体になっちゃってるので、大きく変化した場合、生き残りが難しくなってしまう。

 

 結論として、生物の進化というのはゆっくり進展するものだ。キリンの首が急速に伸びたと行っても、それは地質学的な尺度での話であって、1世代や2世代で急にオカピからキリンになったわけではないのだ。

 

 というわけで、ダーウィンの進化論と、その後いろいろあって現代主流となってる総合説はあまり変わっていない。だが、ときどき反ダーウィンな進化説を考える人達がいる。なかには別にダーウィン的な進化論に反対したわけではない人もいるけど、日本でそういう扱いになった人たちを挙げてみたい。

 

今西錦司

京都大学の名誉教授であり、霊長類学の権威であった。彼はダーウィン進化論が殺伐とした弱肉強食であるとみなし、より日本道徳的な「住み分け論」を提唱した。生物は環境に応じて平和的に住み分ける。進化すべきときになれば一斉に進化するとした。しかしこれはダーウィニズムを実は否定していないし、「進化すべき」状況の説明も「一斉進化」のメカニズムも提出しなかったので、進化論の歴史において現在ほぼなんの影響もない。彼のせいで日本の進化学研究が遅れた、いやそんな影響はなかったという論争がなされているくらいで、どっちにしても彼の進化説にはなんら見るべきものはない。

 

◯木村資生

「分子進化の中立説」を提唱した。分子レベルでの進化。塩基の入れ替えの殆どは自然選択に対して中立で、有利でも不利でもないということを見出した。実は木村の中立説はダーウィニズムを否定してなかった。はっきり表現型に影響を及ぼし、生き残りに影響する変化は当然自然選択にかかる。だが「有利でも不利でもない変化」が遺伝子に定着しうることを示したため、進化は自然選択が全てとみなす方面から攻撃された。

 遺伝子変異のほとんどが中立で、それは確率的事象なので、進化速度を計算できると言うすごい貢献をしていたのだが、一時期反ダーウイニズムの騎手みたいにみなされてた。

 

◯中原英臣

「ウィルス進化論」を提唱した。ウィルスが遺伝子を種を超えて水平伝搬するという事実から、進化の本質がこれであると思っちゃった人である。この人にかかれば、キリンの首が伸びたのは、首を伸ばすウィルスに一斉に感染したからとなる。つまり進化は感染症だと言っているに等しい。考えてほしい。あるオカピの群れが突然ウィルス感染で首の長い子ばかり生まれて、それがキリンになったとして1世代で適応できるだろうか。なお、彼はこのウィルス進化論が今西錦司の「進化すべきときになれば一斉に進化する」という説に理論的説明を与えたと自認していた。

 

池田清彦

構造主義生物学」というなんか哲学っぽい進化論を唱えた。正直何を言ってるのかさっぱりわからない。だれかわかる??

無印良品はかつて無駄を省いた安さを追求したブランドだった。

 もともと無印良品というのは、西友プライベートブランド開発企画からはじまって、ノーブランドを和訳した「無印」をそのブランドに採用したものだ。デザインやパッケージに気を使わず、その分値段を安くが合言葉で、今でも使用されているベージュのラベルにシンプルな赤線と黒字で、一般名詞の製品名を記述するアレは、無漂白の紙を使ってコストを下げていますという印だった。分厚いメモ帳なんかも漂白されてない、ほとんどわら半紙みたいな紙を使っていた。鉛筆で線を引くと穴が空くような代物だった。

 当時の無印らしいアイデア商品にU字形のパスタがある。普通のスパゲッティに使う乾燥パスタを製造する際に折り返す部分。切り落とされて廃棄される部分を袋詰めにしたものだ。もちろん短いので、普通に茹でてパスタソース絡めて食おうとしても食いにくい。安いけどちょっと困る商品だった。

 また、一人暮らしの若者がワンルームで収納不足に悩んでた時代、トイレットペーパーの芯を30㎝に延長したような紙パイプと正方形の天板をプラスチックのジョイントで接続して好きな段数、好きな幅にできる紙製ラック部品をバラ売りしたりしてた。これは意外と安くて頑丈ないい商品のようだが、所詮紙なので、数年そこそこ重量のあるものを載せていると歪んでしまう。

 詰め替え出来るボックスティッシュというものも売っていた。何の印刷もない無地のティッシュ箱の一方が開閉できるようになっていて、そこに中身だけ5個ほどビニール袋にまとめて売ってるティッシュペーパーを突っ込むというものだ。ティッシュ箱は普通の紙製だったので、5回も入れ替えるうちにへろへろになり、あまり使い勝手の良いものではなかった。ドラッグストアがティッシュ五個パックの安売りを始めると、値段でも負けることになる。

 値段で負けるといえば、1980年代には5000円以上した120分ビデオテープを「包装を簡易にして」3000円くらいで売ってたが、ビデオテープが家電量販店を中心に恐ろしい速度で値下がりし、一本1000円で買えるようになった頃にも、まだ3000円だったので、ちっとも安くない商品になってしまっていた。

 

 つまり1980年代から1990年代の無印良品は、正直「安かろう悪かろう」に非常に近い位置にいた。あからさまな不良品とかはなく、製品の品質自体はさほど悪くなかったのだが、なんというか「微妙」って感じ。

 

 だが、当時も常に「シンプル」を通した製品デザインは悪くなかったし、当時の西武セゾングループのおしゃれなイメージもあり、都会でシンプルな無印を使うというのは、なんかおしゃれな若者文化みたいな雰囲気を出していた。そのうち「値段じゃなくてシンプルデザインこそ無印の強さ」と気づいちゃったんだろうね。無印良品からあからさまな安価狙いの商品は姿を消し、むしろ「若干高いけどオシャレだからいいよね」路線に移行していった。真っ白でむやみにカクカクした家電品を独自開発したり、MUJIの名で海外進出したり、最近はすっかり高級ブランドである。まあそれはそれで良いことなのだろう。でも、あのシンプル路線がもともとは「値段を抑える」という目的であったことをちょっと今時の人たちにも知っていてほしいなあと思ったりする。

倭国と邪馬台国と大和と

 古代中国の文献で日本のことは「倭」という字が当てられている。発音的には「わ」なのだが、これは基本的に中国側から日本を呼称するものであって、日本人は自分たちもしくは自分たちの国を「わ」とは呼んでいなかったであろう。「倭」の由来は不明で、漢字の原義から従順なやつらという意味だとか、「矮」の用に小さい奴らだとか、古代の日本人が自分たちのことを「わ」(われ)と呼んでて、同じ音の「倭」をあてたとか、まあいくつも説はあるものの根拠がない。つまりは由来不明だが現在の日本のあたりを「倭」「倭国」と中国側は読んでいたらしい。倭の五王とか、邪馬台国卑弥呼とかの時代、倭国の中が統一されてたわけではなくて、小国が連合したり戦争したりしてる状態で、その中の有力な豪族連合の長が中国の王朝に朝貢して倭国王の地位の承認を求めたりしてたわけだけど。例えば「邪馬台国」なんてのは、」卑弥呼が治める国の人間が「我が国の名はやまと国」といってるのを中国人が聞き取って「やまと」と聞こえる漢字を当てはめたわけだ。「邪馬台」という漢字の当時の発音だと「やまたい」ではなく「やまと」に近いらしい。

 

 近年は邪馬台国畿内説が主流なので、まあ、この「やまと」がそのまま「大和王権」になったと仮定してみるとして、ここで面白いのが「大和」という漢字は中国語由来の音読みでもやまとことば由来の訓読みでも本来「やまと」なんて読めないことだ。「だいわ」とか「おおにぎ」とかではなく「やまと」と読むのは変だ。

 

 地名としての「やまと」の語源は山の下であるとかこれもはっきりしないがいくつか説がある。何にしろ漢字を当てる前に「やまと」という地名があった。万葉仮名などでは「夜麻登」などと漢字を表音文字として当てている。この「やまと」を漢字表記する際に中国から呼ばれる国名である「倭」を使用した。つまり「倭」と書いて「やまと」と読むことにしたわけだ。要するに漢とか魏とかの人はうちらの国を「倭」って書くから、これはつまりうちらの国「やまと」のことで、「倭」と書いて「やまと」と読むようにすればあちらの人もこちらの人もうまくいくんじゃね?ってことだよな。さらに、「うちら結構すごくね?『大』つけちゃおうぜ」って「大倭」になり、「なんか『倭』ってあんまし良くない字じゃね?『和』に変えちゃおうぜ」ってことで「大和」になったと。

 ところで7世紀頃、日本は漢字の国号を「倭」から「日本」に変更する。でもこの「日本」の読みは「やまと」のままだった。ヤマトタケルノミコト古事記では「倭健命」、日本書紀では「日本武尊」と表記しているが、どちらも「やまとたけるのみこと」である。しかし地名の「大和」は「大日本」にはならなかった。謎だ。定着してたからか?すでに「倭」ではなく「和」になってたからか?

 

 長い年月がすぎるうちに、日本と書いて「やまと」と読む用法は消えていった。「日本」は「にほん又はにっぽん」、時代劇では「ひのもと」と読み下しで発音してるけど、「やまと」とは読まないよなあ。「やまとだましい」などと言うときは「大和」の方を使う。

 

 国号としては「日本」に置き換えられた「倭」だが、「和」となって日本の主に文化的なものを表す文字として生き残っている。和食とか和装とか。これももちろん「やまと」とは読まれず「わ」なのだが、このへんもなんか不思議な気がする。

MTVとCNNがやってきた時代。庶民が「外国」に触れた1980年代

 1970年代まで、普通の日本人にとって外国は異世界だった。少なくとも1964年生まれの僕にとっては、外国というのはどこか彼方の、断絶した世界だった。いやもちろん当時も、もっと前の戦前も貿易で戦争を起こすほどに重要だったのだから、海外との交流はずーっとあったのだけど、庶民の日常に入ってくる「外国」というのは、事件や戦争のニュースで突発的に現れる窓の向こうの一瞬であり、ルーシー・ショーのような海外ドラマで描かれる日本とは違う演劇のような世界であって、「リアルな今」と感じられるものではなかった。

 

 アメリカのTV業界は、NBC、CBS、ABCの三大ネットワークが支配していたが、1980年代、ケーブルテレビが普及し、多チャンネル時代を迎えるとニュース専門のCNN、音楽専門のMTVが台頭する。80年代半ば、日本はまだNHKが衛星放送を始めた頃で、ケーブルテレビは主に難視聴地域向けの通常放送の配信にとどまっていた。この時代、アメリカで大流行していたCNN、MTVのコンテンツを地上波の30分~1時間程度の番組に編成して放送するということが行われた。毎週、もしくはウィークデーの毎日、リアルタイムの海外情報や文化が放送されることになる。時あたかもバブル前夜。庶民が豊かになり、外の世界に目を向ける機会を得たそのときに、夢の異世界に過ぎなかったアメリカ文化が津波のように押し寄せたのだ。この当時、この種の番組のパーソナリティに選ばれた帰国子女やハーフの、ネイティブ英語混じりの解説は当時の「オシャレ」を代表していた。やがて本格的なバブル景気の盛り上がり。庶民は当たり前のように海外にでかけ、CNNやMTVで見た文化を満喫する。近年の中国人が日本や欧米に大挙して押し寄せるアレが、まさに日本人によって行われたのだ。いやだってほら、初任給15万とかでボーナスもポンポン出て、残業もあるにはあったけどきちんと残業手当も出て、そういう時代にヨーロッパ10日間12万円とかのツアーが旅行雑誌に踊ってたんだぜ。そりゃ海外旅行するだろー。

 

 バブル崩壊後、現代に至るまでどんどん景気が悪化して、そんな余裕ある人は少なくなったけど、それまでの過程で海外が身近になったのは確かだ。そして現在、ブラック労働で海外旅行なんて夢のまた夢の人たちも、インターネットでリアルタイムの海外情報を得られている。これは日本にCNNやMTVがやってくるまではなかったものなのだ。世界が近くなったあの時代、今となっては一瞬の夢のようだったが、それでも時代の変化は今に伝えられているはずだ。

 

 この記事の最後に、80年代MTVで印象に残ったPV、ピーター・ガブリエルの「スレッジハマー」。ライオネル・リッチーの「ハロー」を貼っておく。ピーター・ガブリエルは、当時の音楽番組のキャスターがネイティブに「ピーター・ゲイブリエル」と発音していたのと、「ウォレスとグルミット」のアニメーターが担当したチキンダンスが印象的。ライオネル・リッチーの「ハロー」は、この一曲で見事な一本のドラマを描ききった傑作である。あの当時、ミュージックビデオはまるで映画のような大金と一流監督を起用して作成された。その究極がハリウッドのVFXを駆使したマイケルジャクソンの「スリラー」であるのは確かだが、それはあまりにメジャーなので貼らない。

www.youtube.com

www.youtube.com

マーフィーの法則と進化論

 マーフィーの法則とは、「なんであれ悪くなる可能性のあるものは必ず悪くなる」「トーストを落としたときに、バターを塗った面が下になる確率は絨毯の値段に比例する」といった、ペシミスティックな法則である。もちろん根拠はないが、なんとなく聞いた人が納得するものがいくつも作られている。まあ、一種のジョークではある。

 マーフィーの法則がもっともらしく感じられるのはショッキングな出来事が、より強く記憶され、印象に残らないものは忘れやすいという人間の脳の働きによるものであろう。大概の人は失敗や損害を強く記憶に残すものだ。

 さて、もともとの自虐や悲観的な要素を排除するとこの法則は「確率がゼロでない事象は、試行を繰り返せばいずれ起こる」という当たり前の話になる「99.9%安全」と言われれば大概の人は安全だと思うが、それは「0.1%危険」と等価であり、1000回やれば一回くらいは危険な事になるという話である。たとえば遊園地の遊具が99.9%安全だとして、一日1000人が使ったら、一日一人は危険という事になる。試行回数が多くなると意外とやばい。

 

 生物は自分のコピーを生産し続ける。だが、コピーは100%完璧とは言えない。遺伝子を複製する際にコピーミスが起こりうる。何百世代、何千世代の複製で、遺伝子が徐々に変化していく。コピーミスはランダムに起こる。であるなら、無数の試行が行われ、遺伝子が発現する表現型は壊れていく。マーフィーの法則によって必ず壊れ続ける。環境に適応している形質が、世代を重ねる中で必ず壊れる。変化がランダムである以上、「壊れた結果よりよくなる」可能性は非常に低い。では生物は進化するはずがないのでは?

 

 生存と繁殖に不利な変異のほうが多いとしても、そういう変異をした個体は生き残りが難しいだろう。結果的に生存に不利な変異をした個体は子孫を残すことなく死ぬ確率が高まる。ランダムな変異は大概が有害である。なので、殆どの場合「変異してない」個体がより多くの子孫を残し安定する。世代交代がものすごく多く重なる中、ほとんどの変異は子孫を残せず、大半は変異しない連中が支配し続ける。しかし変異の回数自体は多い。その、「ほとんど捨てられる変異」の中に、保守的な変異しなかった個体よりわずかに生き残りやすい形質が産まれた時、その遺伝子は集団の中に広まる資格を得る。

 

 花に擬態するカマキリや、枯れ葉に擬態する蛾がどうやって進化しただろう。それらの先祖はそんなに花や葉に似てなかったろう。個体差のレベルで若干色や形が背景に馴染みやすいものがいたかもしれない。ほんのちょっとの差でも背景に似ていない方が鳥に食われて死んだだろう。残ったのはほんの少し花や葉に似た個体。それが増えた中から、さらに鳥に食われ、より花や葉に偶然似た個体が生き残った。その繰り返しの何千年、何万年、何億年の結果、異様に花に似てたり枯れ葉に似てたり姿を作り出す遺伝子が残った。

 

 洞窟の中で進化した魚やエビは色が白くなり、目が失われる。暗黒の環境では体表の色素を作る遺伝子、目を機能させる遺伝子に淘汰圧がかからない。なのでマーフィーの法則が牙を向いて遠慮なく刈り取っていく。壊れても繁殖に無関係な昨日はおそるべき勢いで刈り取られていく。

 

 進化とは、ひたすら壊れ続け、その中から適応を選択していく過程である。そこには実は、意志も戦略もない。よく言う「進化戦略」とは、結果から意味を見出す過程にすぎないのだ。