「死ね」に免罪符??

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 アゴラのこの記事。日本維新の会の議員が「朝日新聞、死ね」とツイートした件を取り上げ、これ自体を情けない事態としながら、なぜこういう事になったかの原因を、はてな匿名ダイアリーに投稿された「保育園落ちた、日本死ね!!!」に求めている。
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 うーん…僕はこの「日本死ね」の記事が出て、はてなブックマークで話題になった当時読んでいて、特に問題には思わなかった。日記の中身は「子供が保育園に落ちて、大変だ。これおかしーよね。なんとかしろよ」というだけのもので、そりゃあ働く親として切実な訴えであり愚痴である。その当時から、なんかタイトルの「日本死ね」に噛み付く人が多かったのだが、これはイライラしてることの表現にすぎないと思ったし、そもそも「日本死ね」と言われても「日本」という抽象概念は傷つきようがない。日記の著者も日本で子供を保育園に入れようとしていたのだから、日本の中にいる人であり、言ってみれば自虐でもある。岩手の田舎に済む人間が、「車ないとコンビニにも行けないし不便すぎる、岩手死ね」とか言ってたとして、これを文字通り岩手県に滅んで欲しいという意味だと思う人はいないだろう。逆に岩手が便利になって欲しいという表現だと思うはずだ。自分が属する集合に対する悪口は、本質的に悪意ではなく現状への不満と良くなって欲しい希望なのだ。

 アゴラの記事では、「もちろん、朝日が死んでも多くの人の生活に影響はない一方、日本が死ねば明日から生活に支障をきたす、だから「日本死ね」の方がより罪深い、という違いはある。」と書いているが、いやそうじゃない。どちらにしてもただの「悪口」であって、本当に日本や朝日新聞が「死ぬ」事態を想定するべき問題ではない。そして重要性に関して僕は逆だと思っている。「日本死ね」が自分の属する集団への悪口であり、自虐と諦めを内包するのに対し、「朝日新聞、死ね」は、自分が属さない他者への悪口であり、より悪意が大きいと感じる。

 どうも21世紀に入って以降、日本人の「日本」に対する言論は非常にナーバスになっている気がする。昔は国や与党への悪口なんかもっと軽く受け流してたと思うのだけどなあ。