うちの田舎はアラビアの砂漠だった

 我が家は岩手県奥州市水沢区福原に居を構えること13代、僕が13代目である。この福原、奥州市水沢区の中でも、なんだか微妙に城下町から離れてるのに武家屋敷が並んでた変な路村なのだ。以下の地図は戦前のもの。福原がなんか水沢駅周辺の中心街から離れて妙に独立してるのがわかると思う。
f:id:juangotoh:20180720185737p:plain

 この福原、伊達政宗が重用した後藤寿庵の領地であり、江戸時代初期までは荒涼たる荒れ地だったらしい。後藤寿庵は九州五島列島キリスト教に入信して、東北にその信仰を持ち込んだようで、当時寿庵の治める福原には、イエズス会の宣教師も集まり、東北キリシタンの集落になっていたらしい。そのときやってきたイエズス会のアンジェリス神父が残した言葉が「ここはまるでアラビアの砂漠のようだ」。アラビアの砂漠???

 現在の胆沢平野は緑あふれる田園地帯である。到底砂漠には見えない。これは後藤寿庵が「寿庵堰」と呼ばれる農業用水路を開削した結果豊かな穀倉地になったのだが、いや用水路掘らなくてもアラビアの砂漠っぽくはないんじゃねえのかと子供の頃から疑問である。だってアラビアの砂漠と言われたら、一面砂の山が続いて、ラクダの商隊が歩いてる感じじゃん。
f:id:juangotoh:20180720190542p:plain
いくらなんでも胆沢平野がこんなだったとは思えないでしょwww。

 さてその後、徳川家光の禁教策で後藤寿庵は福原を脱出し、行方知れずになる。残された宣教師や信者はうちの実家の墓があるクルス場付近や、仙台に連行されて拷問処刑のひどい目にあうのだけど、その後も福原には後藤一族は残った。うちの先祖が後藤寿庵と繋がってるのか知らないが、うちは福原の真ん中あたりに家を持つ後藤氏であり、家系図では江戸中期から現代まで繋がっている。幕末の戊辰戦争では福島県の白河までいって夜襲を受けて殺されている。その当時うちのポジションは水沢城留守氏の家臣のなかの徒組、つまり下級武士だったらしいのだけど、どうもそこそこ土地持ちの裕福な家だったっぽい。江戸時代には留守の殿様が領地巡回で我が家を休憩所に選び、その礼として留守の姫(8歳)の書いた書を賜ったという家伝がある。僕もその書を見せてもらったが、とても8歳女児の書くものとは思えない達筆だった。

 戊辰戦争に負けた列藩同盟の武士は帰農を強制され、わが水沢も中心の城務めのみなさんは士族身分を保つため北海道に開拓に行ったらしいけど、福原の家臣たちは素直に帰農。多分もともと地主武士だったんだろうね。うちは大正時代に1000円で豪邸を建て、その屋敷は僕が大学行くまでそのまま使われた。まあ僕の小学校時代には屋根が劣化してコントのようにお茶の間に漏れる雨をタライで受けたりしてたけどな。

 戦後農地改革で農地の多くを小作人に分配しても、1.8ヘクタールの水田を持っていた。祖父の後藤善治は、戦後も地元の名士としてブイブイいわせ、ステレオやテレビをいち早く購入し、周囲の家に自慢したり、金を貸したり、いろんな商売を思いつきでやったりしていたらしいのだけど、貸した金は貸し倒れ、商売はうまくいかず、父の後藤治夫の代には家は傾き、僕が生まれた頃はかなり貧乏だった。ときはまさに減反政策。米農家の暗黒時代である。僕は物心ついた頃には貧乏だったので、決して農家を継がないと子供の頃から宣言していた。そのせいか、父は僕が高校出て大学行ったころに、うちの土地を貫く環状道路の計画が出たのを機会に、農地を売ってアパート経営に乗り出した。これがあたって一時期父はアパートを次々建て、外車を買いまくり、いい感じに成金っぽくなっていた。しかし、父の成功をみた近隣の農家がどんどん農地を売ってアパート経営を始め、家の優位性があっというまに崩れていった。

 そもそもうちのアパート経営が成功したのは、バブルが崩壊した時期に、工場や住宅の地方移転が盛り上がった、一瞬のドーナツバブルによるものだ。首都圏でペイしなくなった工場、大型店舗が地方に波及する一時期のブームであって、失われた20年は地方をも蝕む。いまでは岩手の盛岡以外の地方都市は何も生み出せない魔境なのだ。僕が今実家のアパート経営を引き継いだらどうしよう。後藤アパートはなんというか、かつて持っていた1.8ヘクタールのほとんどを住宅地にしている。ここに必要なのは商店街だと思う。うちの所有地にコンビニを誘致するのがいちばんかなあと思うのだけど、この感覚は30年以上首都圏に暮らした感覚なので、ずれてる可能性もある。地方は車で移動が基本なので、歩いていける範囲にセブンイレブンがある東京とは違うのではないかと。いずれ継がないといけないのだけどどうしようねこれ。