「リベラル」という語が差別語に近づいている

 かつてリベラルといえば、理想主義的だがマルクス主義のようなギチギチの理論に縛られず、現実的な政治思想を指していたはず。なので知識人がリベラルであると表明するのはむしろ当然だった。しかしいま「リベラル」という言葉は、「反日左翼」「与党の方針に常に反対しかしないものを考えない連中」みたいなイメージで語られることが多く、リベラルであると自称する事自体ためらわれる時代になっていると感じる。

 「リベラル」がそもそも「リベラリズム」=「自由主義」なのだが、これは本来啓蒙思想から起こった考えで、権力が人民を支配する原理は神によるのではなく、社会契約に基づくということ、そこから平等思想が生まれ、人間の自由がうたわれた。この自由はすなわち権力からの自由であり、権力が個人の自由を侵すことを忌避する。個人の自由を最大限に尊重することから、この考えは国家を小さくして、極力民間の自由に任せる方向に向かう。このへんは古典的自由主義と呼ばれる。

 ただ、際限ない自由に任せると、貧富の差が広がり、むしろ自由が抑制される人々が多くなるおそれがある。その為、近代的な自由主義累進課税や過当競争の抑制、国家による補助などを行って、自分と他人の自由をバランスしながら尊重しようという方向に進んだ。この方向ではどちらかというと「大きな政府」が要求され、社会民主主義的な思想に近づく。

 この近代自由主義は、大きな政府による社会的なコストが増大するので、またここで規制緩和と公共事業の民間移譲で小さな政府を目指す新自由主義リバタリアニズムという動きが出てくる。小泉政権以降の自民党はどちらかというと新自由主義だ。で、一般に「リベラル」と呼ばれるのは新自由主義ではなく、近代自由主義の方だ。


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 どうも日本のリベラルは特殊だとか、ソーシャルと言ったほうが良いみたいな話が最近ちょろちょろ出てるけど、近代自由主義は上で言ったように社会民主主義的な要素を含んでいるもので、これはイギリスの労働党もアメリカの民主党も程度の差こそあれ変わらない。憲法9条があるのは確かに日本の特殊事情だけど、リベラル勢力が反戦平和主義を謳うのもわりかし日本に限ったことではないと思う。

 上記Togetterのまとめで、コメント欄で複数の人がリベラルを「ファシスト」呼ばわりしているが、これを言う人の頭の中のリベラルとは、ナチスであり、ソビエト共産党であり、クメール・ルージュみたいなものなのだろうな。そりゃそんなリベラルは願い下げだが、問題はリベラルと名乗る勢力すべてそのようにみなされるということだ。これは広い集団を勝手に極端な統一意志にまとめて叩いている点で、民族差別などのヘイトクライムに非常に近い。

 結局「リベラル」という語の印象が非常に低下し、民進党はリベラルを切り捨てて分裂した。「リベラルでは選挙に勝てない」と前原代表が判断したのだろう。

 このように「リベラル」の主張自体が非難の対象になっていく現状、これは自由が徐々に失われているのではないかと思う。