秋葉原の生みの親、東京電機大学の知られざる影響

東京電機大学という大学は、首都圏の大学の中でも知名度の低い部類ではないだろうか。僕の田舎などでは武道が強く、試合などのTVで出場選手を見る機会があった国士舘大学の方がよっぽどステータスが高かった。僕がそんな東京電機大学を選んだのは、僕が理工系であった事と共に、秋葉原や神保町に歩いていける立地の良さがポイントだった(現在のメインキャンパスは北千住に移転)。東京の理工系大学の住所を片っ端から地図で調べて選んだのだ。

 

東京電機大学は1907年に「電機学校」として開校した。その後1939年、旧制専門学校(現代で言えば専修学校よりは大学に近い)の「東京電機高等工業学校」になる。終戦直後、各地に闇市ができたわけだが、電機学校のあった神田須田町では、学生向けに真空管やら各種電子部品を売る露天が並んでいた。おそらく米軍の放出品や横流し品が並んでいただろう。GHQの指令で闇市が潰されるとき、闇市業者が掛け合った結果、秋葉原駅ガード下を確保。須田町から多くの業者が移転し、「秋葉原電気街」ができたのである。なぜ秋葉原は昔からパーツのバラ売りやジャンク屋が多かったのか、そもそも戦後電大学生向けにやすいジャンク品を売っていたからなのだ。

 

工学系の出版社として「オーム社」は有名だ。この会社はもともと電機学校出版局の雑誌部が独立したものなのだ。なお、雑誌以外の部分は、今でも東京電機大学出版局として、理工系の専門書や教科書を作っている。

 

マイコンブームが始まった頃、BASICという初心者用プログラミング言語が流行った。BASIC自体は米国ダートマス大学で大型コンピューター用に開発されたものだが、1970年代後半、メモリの少なかったマイコンでは数キロバイト程度の容量に収めたタイニーBASICと呼ばれるものが世界中で作成された。日本で有名なのが、インテルの8080用に書かれた東大BASICと、モトローラ6800用に書かれた電大BASICである。東大の石田晴久、電大の安田寿明というくらい、マイコン時代電大は東大に次ぐ地位にあったと言って過言ではないだろう(過言かも)。

 

ところで、東京電機大学の英字略称はTDU(Tokyo Denki University)であるが、僕が在学していた1980年代、もう一つTEEC(Tokyo Electric Engineering College)というのも使われていた。1984年から1987年の在学中に徐々にTDUに切り替わってったような気がする。多分単科大学的な意味合いの強いカレッジより総合大学的なユニバーシティの方が偉いという考えでTDUに統一されたんじゃないかな?まあ、僕らの時代すでに工学部の他に理工学部があったし、工学部でも僕が入った応用理化学科みたいにあんまし工学部っぽくない学科もあったので、「単科大学じゃないからユニバーシティ」って方向だったのかもしれない。ちなみに僕が卒業した工学部応用理化学科は、1993年に物質工学科に名称変更。2002年に環境物質科学科に変更、2007年に新規募集をやめて消滅した。なんというか、どんどん内容わからなくなっていく大学の微妙な学科だったのである。僕に残されたのは全くそんな業務も知識もないのに、応用理化学科卒業というだけでもらっている毒物劇物取扱責任者の肩書だけである。

 

ちなみに、東京電機大学には何人か名物教授がいたのだが、その中でも電子工学科の町好男教授は気功の研究で有名である。1970年代の超能力、心霊ブームから中国の気功というものが入ってきて、TVなどでそれを何かの装置で観測している教授を見た人もいるのではないだろうか。それが町教授だ。気功師の手からは赤外線が出てるとか、そういう研究をしてたのだけど、2015年現在に至ってもこれといった成果は出していない。最近ではNPO法人気功文化センターの会長をしているらしい…