ファシズムと全体主義と日本、そして安倍首相はファシストか?

第二次大戦の頃の日本がファシズムであったかという点はなんというか概ね反論のほうが多いと思う。「天皇ファシズム」「上からのファシズム」などという、なんだかよくわからない用語が用いられたりするのだけど、まあ「民主主義的ではないし、イタリアやドイツの仲間だからファシズムの仲間で、日本独自のファシズムだったんじゃねえか」的な居心地の悪さを感じる。全体主義だったかと言われると「まあそうなんじゃね?」と思えるのだが。

 

ファシズム全体主義は重なる概念だけど、前者は結局のところイタリアのムッソリーニ率いるファシスト党による体制を指した言葉であって、ドイツのナチ党体制はナチズムと呼ばれた。まあファシズムのほうが先なので、次第に一党独裁国家主義的な体制をファシズムと総称するようになった感じなわけで。その意味ではソ連共産党独裁体制もまさにファシズムなのだけど、大祖国戦争中のソ連兵にそんなこと言ったら顔を真赤にして銃を向けてくる事間違いない。

 

イタリアにおいてファシズムは偉大なローマ帝国の再現をもくろみ、ドイツにおいてはアーリア人によるドイツ第三帝国を幻視した。なんというか過去の栄光再び。しかも疑似科学コミコミで。ところが日本では大本教が弾圧され、神話時代の日本が世界を支配していたみたいなウルトラナショナリズムはかえって批判された。いやまあ、記紀に描かれている朝鮮支配の理論的正当性なんかはうまく利用してるので、神話オカルトを徹底排除したわけではないのだけど。なんというか、「強烈な国家意志」みたいなものに欠けてるんである。

 

日本の体制は自己の戦争を正当化すべき強烈な宗教的熱狂が全く足りなかった。満州事変、北支事変、これらは政府の意志と必ずしも一致しないところで軍が動き、なあなあで国家が追認しちゃった、とてもマヌケな流れなのである。あげくに石油禁輸でハル・ノートつきつけられ、「やべえ、このままじゃジリ貧だ」って対米戦争はじめるというていたらく。要するにカリスマがいなかった。昭和天皇はカリスマではあったけど神に祭り上げられ、本人は立憲君主を志向してたのもあって積極的に政府と軍部に口を出すことをしなかった。なので戦争中の連合国のプロパガンダではヒトラームッソリーニに並べて描く日本の指導者は東條英機だかなんだかよくわからないメガネ出っ歯の日本人カリカチュアになってしまうのである。敵から見ても日本はなんだか顔の見えない異質な存在だったわけだ。

 

現代においてもアメリカの行う「正義の戦争」では敵の顔が重要である。アル・カイダの「ビン・ラディンイラクの「サダム・フセイン」。ところが対日本に関しては「敵の首魁」がなんだかぼんやりして顔が見えない。首相はころころ変わるし、天皇は馬上で敬礼してるだけ。なにこいつら?ってなるよね。

 

安倍首相が歴史修正主義ファシストみたいに見られてるけど、なんというかこれも、本人がナイーブな修正主義者であるとは思うのだけど、ヒトラームッソリーニみたいな一貫した強さは感じられない。あの人は前回、自民党がいまにもこけそうな時期の首相やったときにも同じ個人的志向はあったと思うけど、「あ、今これ言ってもダメだよね」って小泉路線の後継に徹して、病気で退陣した。今の安倍政権民主党政権にうんざりした国民が強い政府を求めて、修正主義的な言論が(特にネット上で)盛んになったことを追い風に、「ええと、いいのかな?これ言っても、あいいんだ、じゃあ慰安婦なしってことで」みたいに周囲の意見に力づけられてあれをやってる感じに見える。巧妙な陰謀とかではなくて、とてもナイーブなネトウヨに極めて近い、「みんな遠慮してたけどネットで真実を知ると黙っていられないよね、南京大虐殺なんて20万の人口で30万どうやって殺せるの?慰安婦は正統な売春婦で、当時は各国であったよね。韓国人は嘘つきだよね、そうだよね」って言い合ってるような感じだ。

 

全体主義は、国家という全体のために国民という個は奉仕すべしというもので、実は日本ではわりと馴染みやすいのではないかと思う。共産党やらファシスト党やらナチス党がなくても日本人は集団のために個人が犠牲になるべきみたいなメンタリティを「なんとなく」維持し続けているのではないだろうか。