米中対立がRISC-V開発を促してるのだろうか。

 RISC CPUの元祖はIBMの801かもしれないが、MIPSやARMに繋がる現代の多くのRISCアーキテクチャの大本はカリフォルニア大学バークレイ校のBerkeley RISCだろう。
 RISC-VのVは「ファイブ」であり、バークレイ校で作られた5番目のRISC命令仕様だ。この仕様はオープンソース化され、RISC-Vファウンデーションに移管されて普及を目指している。仕様がオープンであるため、この命令セットのCPUを誰が作ってもライセンス料などは発生しない。主にその要因で結構注目を集めているし、多くの企業や組織がRISC-Vファウンデーションに参加、なんらかの商品化を目指している。とはいえ、RISC-Vのいい点はなにもオープンであることだけではない。

 既存のCPUは、x86にしてもARMにしても、長い年月の積み重ねで命令数は増加し、回路は複雑化している。ARMも64bitモードの命令セットはそれ以前のものと大きく変わってしまっている。互換性を保ちつつ高性能化するためにはそういう変化は避けられない。既存の主流CPUは、16ビットや32ビットの頃に基本設計がなされたものなので、互換性を保ったまま64ビットの時代に対応するのが難しかったのだ。RISC-Vは最初から32,64,128ビットでの使用を考えて設計されている。128ビットの仕様の詳細はいまだ決定されていないが、命令の拡張をあらかじめ決めてあるので、おかしなことになる見込みは少ない。

 組み込みのマイクロコントローラから、HPCまで広くカバーするように設計されており、命令数も整数用の最小限のものから、単精度、倍精度実数、MMU関連などをオプションで設定しており、メーカーが独自の命令を追加する余地もきちんとある。BSDライセンスなので、そもそも勝手に拡張してもかまわない。まっさきに採用をアナウンスしたのがハードディスクやSSDを作っているWDであり、組み込み用途としてのものであったのもうなずける。現代のコンピューター周辺機器は基本インテリジェントなものであり、内部にCPUを持っている。こういう部分に使う比較的小規模で、特定用途のCPUというのは、WDのようなメーカーなら機器のために必要な命令を追加した自社製のものを使いたいということがあるだろう。これをARMやIntelに言ってライセンスをもらうというのはあまり現実的ではない。ただ、組み込み用マイクロコントローラだけに使うには、RISC-Vの仕様全体は大きい。小さくもできるがそれだけではないわけで。スマホやパソコン、スパコンまでサポートする気満々なのである。この分野はARMやIntelの牙城であり、そうそうシェアを奪えるものではない。なお、日本の場合かつての大手半導体メーカーがCPUジャンルを統合したルネサスが各種コントローラーを作っていることもあり、日本企業のRISC-Vへの注目は組み込み向け含めてもなかなか出てこなかった。

 RISC-Vファウンデーションが決めているのは、命令セットであり、具体的なCPUの設計ではない。ハードウェア記述言語で作成したリファレンス実装はあるし、関係者が起業したSiFiveが実際に動作するCPUを販売しているが、あくまで初期開発ボード的な商品でしかない。また、ARMのようにGPUを統合してそこそこ高性能な3Dグラフィックまでこなすものは出てきていない。要するにスマホやパソコン用としてはいまだ使い勝手の良くない初期段階という感じだった。最近までは。

 米国トランプ政権が中国を危険視し、ITジャンルでの各種規制を強めた結果、ARMやGoogleの最新技術を一時的にも得られなくなるかもしれなくなった中国だが、その途端雨後の筍のようにRISC-V関連の発表や商品化が相次いでいる。
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 以前から中国企業が多数RISC-Vファウンデーションに参加していたので、たまたま今の時期にその成果が出てきたのかもしれないのだけど、米中対立がこれらの発表を急がせたという部分はあるのじゃないかなあ。その結果、こんな面白そうなガジェットが入手できるようになっていたりする。
fabcross.jp
64ビットRISC-V2コアにニューラルネットワークアクセラレータを内蔵したCPUを搭載したカメラ付きの小さなアイテム。3000円くらいでこんなの買えるんだぜ。

 少なくとも、MIPSIBMのPOWERアーキテクチャがオープン化するなんて話が出てくるのは、RISC-Vが人気だからだろう。ちょっと前までの日本では、RISC-Vといっても「どうせオープンってもハードウェアはソフトみたいにはいかないぜ、IntelやARMがある以上どうにもならん」って感じだったと思うのだけど、無視できない勢力になりつつあると思う。

怪傑?快傑?

怪傑という言葉がある。goo辞書によると
dictionary.goo.ne.jp
非常にすぐれた力を持つ不思議な人物。
となっている。
怪傑ゾロとか怪傑黒頭巾とか、怪傑ライオン丸とか、怪傑ゾロリとか。いろいろな作品タイトルになっている…ちょっと待て?

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ライオン丸は「怪傑」じゃなくて「快傑」じゃないか。不思議、あやしいを意味する「怪」じゃなくて、ここちいい、スカッとする方の「快」じゃないか。「傑」は「傑作」「傑物」の「傑」であり、文字通り優れたものを表す。つまり「快傑」なら胸がすくような優れた人物であって、不思議でも怪しくもないことになる。ではゾロは?黒頭巾は?

時系列で言うなら、黒頭巾の前にゾロがある。1919年に書かれた小説が、1920年に映画化され世界的大ヒット。このときの邦題は「奇傑ゾロ」怪傑でも快傑でもない。ただ、「奇」はあやしい意味を含むので、「怪傑」に近いかも知れない。だが、1935年に「快傑黒頭巾」が書かれ、1937年以降、ゾロの何度かの映画化の際、邦題が「快傑ゾロ」になっている。つまり、ある種のヒーローにつける冠としての「かいけつ」は「快傑」が最初であり、それは「快傑黒頭巾」が元祖であったといってもいいのではないかと思う。
怪傑ゾロ - Wikipedia

これがその後、1972年の「快傑ライオン丸」まで定着し続けたと思われる。では怪しい方の「怪傑」はどこから産まれたのだろう。

金太の大冒険」で有名なコミックソング歌手、つボイノリオが1976年に「怪傑黒頭巾」という曲を発表している。これはシモネタソングであって、タイトル自体が一種のパロディと言えるので、ここであえて「快傑」を「怪傑」に置き換えたのではないか。するとシモネタでもパロディでもない作品でヒーローに「怪傑」とつけるのは単に間違いではないだろうか。というか、「怪傑」はそもそもパロディ用語であってつボイノリオの一発ギャグでしかないという可能性が浮かぶ。


ちなみに、ゾロリはゾロのパロディだが、表記は「かいけつ」であって、実は漢字表記されていない。彼はもともとは「ほうれんそうマン」というシリーズの適役であったが、のちにスピンオフとして主役になった。

結論として、「怪傑」はつボイノリオの曲名にのみ存在し、一般的には使われない単語である。goo辞書の記述は間違いもしくは敷衍した誤解ではないかと思われる。

玉音放送のあとの解説放送はドラマで再現されないのだろうか

 昭和20年8月15日正午の玉音放送終戦を象徴するものとして数々のドラマでも流されてきたが、録音された昭和天皇詔勅部分だけを流し、登場人物が終戦をしるという形になっている。ただ、あの終戦詔勅というものは、当時の国民の殆どが聞いたことのなかった天皇陛下の肉声であり、また、独特の文語調の朗読であるため、あれだけを聞かされたとしたら、正直一発で理解できない人が多かったと思うのだが、大概のドラマではラジオの前で主人公が「戦争が終わった」と即座に理解するものだ。

 実際の放送は、正午に天皇陛下の録音を流した後、NHKのアナウンサーがあらためて詔勅を朗読、続いて鈴木貫太郎首相の内閣告諭、終戦決定の御前会議の内容報道、ポツダム宣言受け入れの説明、これまでソ連を通じて和平工作を行っていた事実といったかなり突っ込んだ内容が放送されたらしい。その後、映画「日本のいちばん長い日」で描かれたような8月9日から14日までの重要会議の内容を「緊張の一週間」と第して放送したらしい。ここまで聞けばそりゃあ聴取者は「あ、日本が負けたんだ」とその過程を含めて理解できる。というか、冒頭の天皇詔勅なんか忘れてしまうくらい濃い放送がなされた模様だ。

 残念ながら、昭和20年当時は、磁気テープのような録音装置はなく、使い勝手の悪いレコード板への直接録音しかできなかったわけで、前夜に録音された天皇陛下詔勅以外の部分は放送時に録音されてはいなかった。というか、放送を残すということが当時はまだ一般に行われていない。なので、当時を再現するなら音源が残っている玉音部分以外は各種記録から組み立てて録音し直す必要があるのだが。ドラマ等では別に新録で作ってもいいと思うんだよな。なんかもう、8月15日といえばノイズまじりの「耐え難きを…耐え、忍び難きを…忍び」流すパターンじゃん。そのあとも流そうよ。どんな放送がされたのか、各種記録から再構築してやってくれたらすごく興味深いと思うのだ。

宗教的歴史を実証しようとする科学は眉に唾つけて読む

 わりと何年かに一度、西欧発の「ノアの箱舟発見」とか「紅海が割れる可能性実証」とか「神が放浪イスラエル人に与えたマナの正体は」みたいな記事が新聞やネットに流れてくることがあるのだけど、あれらは基本真面目に受け取らないほうがいいと思う。

 ノアの箱舟はそもそも史実とはみなせない。ギルガメッシュ叙事詩のパクリだし。実際方舟発見のニュースは定期的に流れるが、その後すべてうやむやになっている。

 紅海が割れる可能性について、モーセがエジプトから数十万人のユダヤ人奴隷を脱出させたときに、紅海を割って歩いて渡ったとされているのだが、これを干潮時に強い風が吹けば海底が露出する可能性があるなどと発表されることがままある。ただ、そもそも文献が大量に残っているエジプトに、「ユダヤ人が大量脱走したので軍で追いかけた」みたいな記述が一切残されておらず。史実としては非常に疑わしい。カナンの遊牧ユダヤ人たちの一部に「自分たちはモーセという指導者に従ってエジプトからやってきた」というくらいの伝承があったかもしれないが、何十万人もの集団ではなかったろうし、少人数で移動し、軍に追いかけられてもいなかったとするなら、普通に陸路で移動したであろう。

 旧約聖書によれば、モーセに従った数十万人のユダヤ人は、エジプトから脱出後、カナンの地に定住するまで実に40年もうろうろ旅を続けたことになっている。小松左京の「復活の日」で、ワシントンから南米南端まで徒歩で縦断した主人公が6年で踏破しているのと比べて、いくらなんでも長すぎであるが、この間荒野でテント生活するユダヤ人に神がもたらした食料が「マナ」である。朝地面にいっぱい落ちてて、自分たちが消費する文だけ拾って食べたことになっている。多くとっても一日で腐っちゃうので無意味なのだ。なお、安息日は神が休むのでマナは振らなかったのだが、安息日の前日には二倍収穫しても腐らなかったのでOKだったらしい。なんとも都合のいい代物だ。これは「パン」とも言われるが、甘くてサクサクしたウェハースみたいなものだったらしい。で、このマナは実際なんだったのか、りんごだとかキノコだとかいろんな説が大真面目に唱えられているのだけど、紀元前1200年とかそんな時代の伝承である。しかも現代に伝わる伝承は、一度ユダヤ王国が滅ぼされて新バビロニアの地でメソポタミアの神話の影響を受けながら創世記から執筆し直した結果の記述であるわけで、そんなもの神話でしかない。着の身着のまま数十万人で大量脱出して、約束の地に定住するまで荒野を40年もさまよったことになってるから、食料をどうしたのか説明付けなきゃいけなくなって神の恩寵を挿入したわけで、本当に毎朝マナなるサクサクの甘いものが降って湧いたわけがないだろう。

 ちなみに旧約聖書冒頭のモーセ五書は、伝統的にモーセが執筆したとされていたが、その最後はモーセが死ぬシーンが描かれているので、それだけでモーセの作品でないことがあきらかである。ドキュメンタリーと宣伝されたモンド映画「食人族」で最後に全員の死体を写しているカメラマンは誰だみたいな話である。

 モーセの死後、指導者の地位を引き継いだヨシュアは、ユダヤ人を率いてカナンの地を侵略、あちこちの都市を攻め滅ぼす。そりゃもう男は皆殺し、女は犯す勢いで悪逆非道の限りを尽くすが、神の命令なので全部正しいのだ。ヨシュアがラッパを吹きながらエリコの周りをぐるぐる回ったら神の力で城壁が崩れ、戦争に勝つことができたとなってるのだけど、エリコの城壁はユダヤ人がやってきたとされる時代のさらに1000年くらい前に崩れていて、実は無人の廃墟だったらしい。よかった、虐殺はなかったんだ(おい)。

 ユダヤ人の祖先はアブラハムとなっていて、この人はウルからカナンに来て、この地で一旦後のユダヤ人の祖先が増えるのだけど、いつの間にかエジプトでユダヤ人は奴隷になっている。それをモーセが数十万人の大脱出でカナンに導くストーリーになってるので、アブラハムの子孫はカナンに定着していなかったように描かれている。だってエジプト出身ユダヤ人たちがカナンの人たちを全部神敵として滅ぼすからね。実際はそこいらで遊牧生活していた、ある程度祖先神話を共有する部族たちが徐々にまとまって、最終的に建国したのだろう。アブラハムを祖とする部族、イサクを祖とする部族、ヤコブを祖とする部族。そこにモーセを祖とするどちらかというと新参部族が合流して、「おおあんたらの神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神ってのか、いや実はそれはな、ヤハウェといってすげえんだぜ」と吹き込んだのではないかと思われる。そう考えると数十万人で紅海を渡り、マナを食いながらラッパ吹いて城壁を崩す必要もなかったろう。紅海は割れなかったし、マナなんてなかった。それでいいんじゃねえのかな。

引っ越しの顛末

新居の概略図
新居の概略図

引っ越しの事情

 僕は相模大野から徒歩15分の4LDKの貸家に4人家族で13年ほど住んでいた。二年ごとに更新を続けていたが、2017年10月の更新時期に、この家に大家さんの家族が住みたいので、今回の賃貸契約を一年にして、一年以内に立ち退いてほしいと言われた。実は相模大野の貸家は家賃が11万5千円と結構高く、毎月の支払いがかなり苦しかったので、もっと安いところへ引っ越す計画は以前からあり、ちょうどいいからごねたりせずに一年で転居を考えることにした。なお、義父が以前アルコール依存からまともな食事をとらなくなって低ナトリウム血症だったかで緊急入院したことがあり、近所に義父のワンルームを借りて、毎日家に呼んで食事を提供していたのだが、引っ越すとなると義父もつれていかないといけないし、毎日食事に呼ぶんだったらいっそ同居したほうが生活的にも金銭的にも楽だということで、義父も住める部屋数の物件が必要になった。できれば5DKは欲しいわけだ。
 2018年の 夏頃から本格的に不動産屋の店頭に貼られた物件案内や、インターネット上の賃貸情報をあさっていたところ、相武台前駅から徒歩8分、5DK、75000円、管理費5000円という物件が見つかった。ただ、スーパーやコンビニまで少し遠いので、ほかにいいのがないかとさらに探していたが、さすがにこの家賃に匹敵するところはなかなか見つからない。というか賃貸物件は多くが単身者や少人数向けであって、4部屋も5部屋もあるものは数が少ない。9月中旬になって再び相武台前の物件を調べたところ、家賃が65000円、管理費5000円に値下げされていた。もうこれは借りるしかないだろうと、内見を申し込んだ。昭和39年築の古い家だが(くしくも僕の生まれた年である)、昭和50年代に改築が行われ、衛星アンテナがなぜか三つついていて、各部屋にアンテナ線が引き込まれている。天井の照明はほとんどの部屋でリモコン式のLEDシーリングに交換されており、なんだか古い家なのに部分的に妙に先進的だ。エアコンも2台備わっている。思ったよりいい家なので借りることにした。なお、一か月のフリーレントがついていたので、入居時は敷金を一か月分払うだけでいいという大盤振る舞いである。
 なお、予算的に大変厳しいので、9月いっぱいで退去して10月分家賃払わないで済むようにぎりぎりの引っ越しスケジュールを立てた。9月25日に新居の鍵を受け取り、梱包と移動を自分たちで行う。軽自動車のピストン輸送と、一日だけ軽トラをレンタルしての大物輸送を家族4人で頑張ってやることにした。なお、冷蔵庫は素人が運ぶのは厳しそうなのでクロネコヤマトのらくらく家財宅急便を利用することにした。

J:COM

 相模大野の家ではJ:COMのケーブルが入居時から引き込まれていたため、それ以前から契約していたJ:COMのケーブルテレビとインターネットの引継ぎが簡単にできた。なので今回もJ:COMに引っ越しする旨を伝え、新居で引き続き使う意思を表明。なお、十数年前の契約でインターネットの接続速度は1Mbpsだったのだが、今は同じ値段で1Gbpsにできるとのことで、ラッキーと思った。ただし、1Gbpsの場合、最初J:COMのケーブルを使った320Mbpsではじめ、後でau光の光ケーブルとモデムを追加工事する形になるとのことだったが、引っ越してすぐ使える320Mbpsでも今までより300倍速いわけだから何の文句もない。9月25日にJ:COMの担当者が現場を視察、工事の予定を立てる事になっていたのだが、ここで問題が生じる。図の道路側の電柱から、家にケーブルを引き込む際、敷地内に立っている電柱を使用する必要があるのだが、J:COMは個人宅に東京電力が建てた電柱の使用許可を取得していないようだ。視察後かかってきたJ:COMの電話によると、これから東電さんに使用許可を申請して、通るのはおそらく半年以上先、もしかしたら通らないかもしれないとのこと。ええと、ケーブルテレビだけじゃなく、インターネットと電話もJ:COMさんにまとめてもらってたので、これらのインフラが半年先に延びると?電柱の使用許可って、うちの敷地なんですが、通らない可能性もあるの??
 というわけで、引っ越しの準備が佳境に入った中で代替手段を急遽探すことに。フレッツなりauなりNUROなりの光インターネットサービスを契約して、CSはスカパーと直接契約すればJ:COMよりむしろ安上がりになる計算。なのであまり深く検討せずにNURO光の代理店と契約。いやここも電柱使用許可が取れないとかなったら困るけど、「J:COMさんは電柱使用許可が取れず半年先になると言ってましたが、おたくはそういうことはないでしょうか」と聞いたら「そういう可能性がゼロではないですけど、その場合必ずなんらかの代替手段を提示します」とのこと、代替手段といわれてもなあという話だが、疑ってずるずる契約引き延ばしてもいいことないので決めました。ここはケーブル工事までポケットWi-Fiを貸し出してくれるので、とりあえずインターネットは使えるようになるし。
 結局引っ越し後数日で屋内工事が入り、NTTがケーブルを引く屋外工事の予定もすんなり決まりました。電柱が使えないという話は一言も出ません。というか、NUROはNTTの光ケーブルに乗っかる形のサービスなので、昔NTTの電話が引かれていたうちの電柱の使用許可がないということはないと思う。
 さて、屋内工事に来たNUROの人が、「あ、ここ以前の方が光ケーブル引き込んでますね」と言い出して、家に引き込まれてるケーブルを指す。「え?じゃあ屋外工事そのケーブル利用して簡単になるんですか?」と聞いたところ、「いや、このケーブルはKDDIさんのなんで、NTTさんはまた別のケーブル引くことになります」


 ん?KDDIの光ケーブルが引き込まれてる?……J:COMの1Gbpsコースはau by KDDIと組んでたはずだけど、電柱使用許可の件、なんだかもやもやする。まあいいや。KDDIは許可あってもJ:COMにはないんだろう。

 今現在まだ屋外工事前なので、光インターネットは使えていないが、どうやらすんなりいきそうである。なお、屋外工事は最短で10月23日とのこと。当初の予定なら引っ越してすぐインターネット使えるはずだったのだが。

東京電力

 新居の電気開通を東京電力にお願いする。9月25日朝に開通、立ち合いはなくて構わないとのことだったのでまかせておいて、昼頃鍵を受け取って新居に向かうと電気つかない。東電に電話していろいろ話してみると、どうも新居には電気のメーターが二つついている。つまり別々の電線が二系統引き込まれていることが判明。図のAとB、それぞれに別契約が必要になることが判明した。最初に開通したのはAの方だけで、Bのメーターはちょっと見えにくいところにあったので工事の人が気づかなかったらしい。どうもAの部分は何かの事務所か二世帯住宅的に使われていたっぽい。完全に一軒の家なのだが、AとBは一階でつながっておらず、階段を上がって二階の廊下をいかないといけない。または玄関を出て庭を移動する。
 とにかく二契約必要なので契約を一つ増やす。思わぬ罠であった。

渋滞

 実際の引っ越し作業は26日から本格的に荷物の移動を行うことになった。軽自動車の後部座席をたたんで荷物を積み込む。相模大野から相武台前まで5㎞ほどなので、気楽に往復できると思ったのだが、この二区間を結ぶ県道51号線、昭和天皇が座間の陸軍士官学校行幸したことから行幸道路と呼ばれている、その道路が慢性的に渋滞しているのだ。原因は小田急相模原から相武台前までの区間で踏切に向かう車が多いこと。踏切があかないと行幸道路の交差点まで詰まってしまって大変なことになる。空いてれば10分でいける区間なのに渋滞で30分かかることもざら。朝から夜までピストン輸送してもなかなか引っ越しが進まない。これはかなり参った。小田急線と相模原市座間市はこの区間を高架化するか、道路の立体交差をぜひ進めてほしいものだ。

台風

 当初の予定では27日には半分くらい運んでしまい、28日に軽トラをレンタルして大物を運搬、29日に残った小物を移動して、30日には余裕をもって大家さんに鍵を返すというつもりだったが、上記のようないろんな事情でずれ込み、9月30日の夕方になっても終わりが見えない。深夜早朝までぶっ通してがんばるしかないかと思ったが、この日は非常に強い台風24号が接近していた。見かねた大家さんの奥さんが、「鍵は明日でいいから、今日はもう休みなさい、台風危ないし」とおっしゃってくれて、本当に助かった。ありがとうございました。

東京電力ふたたび

 10月1日、引っ越しで出たゴミを麻溝台の清掃工場と粗大ごみ受け入れ施設に運び、残りの荷物を運搬開始。しかし忘れていたことがあった。9月いっぱいで引っ越すので電気を10月1日に止めてもらうことになっていたのだった。明るいうちにすべて終わればよかったのだが、結局夜までかかってしまい、スマホの懐中電灯を頼りに運搬することになる。夜8時ころ、家の中の荷物をすべてガレージに出し、鍵を大家さんに返却後、もう1往復してなんとか完了。

地デジが映らない

 あらかじめUHFアンテナが屋根の上にあること、部屋の壁からアンテナ線が出ていることは確認していたので、地デジは普通に映ると思っていたが、テレビ持ってきてつないでみると全く映らない。というかゲインが0である。この家の貸主は不動産会社なので、会社に電話して事情を話すと、「とりあえず調査に伺います」とのこと。数日後、不動産会社の工事担当者がやってきて、アンテナの向きの調整などいろいろやってくれたが、全く受信できず。これはもう屋根裏のアンテナ配線が切れてるかなんかじゃないかという話になる。とにかく、不動産会社の工事担当者ではなく、アンテナの専門業者を呼びますからということになって、10月13日に専門業者が来ることになっている。もしダメだったら、NURO光に追加でひかりTVを頼むことにするかもしれない。その場合CSも含んじゃうので、スカパーと直接受信で契約するとダブったチャンネルに無駄にお金使うことになるわけで、スカパーとの契約もしばらく保留。というわけで、現在わが家ではBSしか見られません。ちくしょう10月新アニメの開始時期だというのに……

反省点

 大人4人いれば引っ越しは何とかなると思ったが、全員が体力のないオタクであることを忘れていた。
 引っ越しはちゃんと引っ越し屋さんに頼みましょう。

グリコマークを傷痍軍人だと思っていた父

 昔、父に聞いた話「お父ちゃんグリコのマークは戦争で片足なくした人だと思ってた」

 いやいやそれはないでしょう。陸上のユニフォーム着て両手上げてゴールしてる人ですよ。左足の先も見えてるじゃない。と思ったのだが、父は昭和12年生まれ。子供の頃戦争の真っ最中である。さらに、グリコマークの変遷を見ると。
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これが昭和3年から昭和20年
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これが昭和20年。
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これが昭和28年。
このへんが父が子供時代に見たマークだ。
僕が生まれたのが昭和39年。
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昭和41年に左足の靴がはっきり見えるデザインに変わっている。

 ああ、なんというか、父の子供時代のマーク、微妙に靴が隠れてるし、お菓子のロゴ印刷ではよくわからないかもしれない。正面の絵で遠近法もきかないし、片足のない絵だと思っても不思議ではないのか。まさかとは思うが、グリコもそういう意見をうけてマークの変更をした可能性が微レ存?(すでに死語か)

後藤寿庵というペンネームについて

 僕は漫画家として後藤寿庵というペンネームを使っているが、これは最初から決めていたわけではない。後藤寿庵は、江戸時代初期に僕の田舎、現在の岩手県奥州市水沢区福原周辺を治めていたキリシタン領主の名前だ。「ジュアン」という音の響きから想像できるように、これは洗礼名であるらしい。前の記事で書いたように、この後藤寿庵は、胆沢平野に農業用水路(寿庵堰)を引いて穀倉地帯にした地元の偉人として知られており、僕が子供の頃毎年後藤寿庵祭というイベントが行われていた。なので幼少期の僕は、自分が後藤だし、面白いから将来子供ができたら寿庵と名付けようとか思っていたのである。

 それはさておき僕は将来漫画家になりたいと思い続けていたが、ペンネームは決めていなかった。デビュー前割とよく使っていたのは、後藤謙治という本名をそのまま署名するか、謙治のイニシャルをとって後藤Kと略した程度のものが多かったと思う。このKを、漢字の桂に変えて、6月生まれなので水無月桂というペンネームを考えたことがある。ちなみにKを桂にしたのは、超時空世紀オーガスの主人公、桂木桂にちなんだものだ。ただ、これはあまりにカッコつけ過ぎかなあと思って実際に作品の署名に使ったことはなかったと思う。

 漫画ブリッコでデビューしたとき、はがき投稿の延長みたいな宇宙刑事をテーマにした4P漫画みたいな企画に応募して採用されたのだが、そのとき原稿に作者名を書いていたかどうか覚えていない。封筒の差出人には本名を書いていたはずだし、それを採用したのか、企画発表では「杉並の後藤」と書かれていた。当時杉並区阿佐ヶ谷に住んでたので、単純に住所と名字で表記されたらしい。正式連載になるときにペンネームどうするか聞かれたんだったか、「杉並の後藤」は名前じゃねえと自分でプッシュしたんだったか忘れたが、とにかく正式なペンネームを急いで決めないとならないと思って、どうしようと思ったときに、かつて自分の子供につけようと思った田舎の領主の名前、後藤寿庵が浮かんだのである。どう考えても他とバッティングしなそうだし、元ネタのキリシタン領主なんて、岩手県でも水沢周辺でしか知られていない。読み方も「じゅあん」とすぐわかると思ったのだけど、デビュー後結構「じゅあんでいいんですか?」と聞かれた。蕎麦屋の屋号とかによく「長寿庵」というのがあって、あれは「ちょうじゅあん」なのだけど、「長」なしで「寿庵」だとなんかピンとこなかったらしい。「長寿」で1つの単語だし、「ことぶきあん」とも読めるから。はい、「ごとうじゅあん」でいいのです。この場合、そもそも昔の後藤寿庵を知らないだろうという利点がまさにあたって、知らないからこそ読み方もわからないという弱点になってしまった。

 ちなみに僕がデビューした1980年代半ばにはまだインターネットが普及しておらず、今のように人文系を含めたあらゆる知識がネットに溢れていなかったし、みんなが気軽に検索するシステムもなかった。「ググる」という習慣自体が存在しなかったのだ。全文検索エンジンが普及して、みんなが検索するようになると、後藤寿庵を検索したときに、僕を期待するにしても、歴史上のキリシタン領主を期待するにしてもリザルトが混ざってしまうのである。この弊害は、あの当時は思いもよらなかった。おそらく同業の完顔阿骨打先生なんかも頭を抱えたんではないかと思う。

 なお、僕自身が後藤寿庵を名乗ってしまったため、実際に息子が生まれた際、後藤寿庵という名前をつけるのはあきらめた。息子たちにとってはおそらくラッキーな出来事であろう。