ミスリルとかオリハルコンとかのファンタジー金属

 最近のラノベファンタジーでは、武器防具を作るための鉱物として、ミスリルオリハルコン、アダマンタイト、ヒヒイロカネなどが一つの作品の中に当たり前のように登場する。もともと別々の由来を持つフィクション鉱物であるので、単一作品に出した際のスペックの割り振りが気になるところだが、共通する特徴として
ミスリルは魔力をよく伝導するので、魔法剣などに使える
アダマンタイトは非常に重く硬い。ミスリルとの差を強調するためか、魔法を極めて通しにくいなどの特徴が加えられることがある。
オリハルコンは、ミスリル以上に魔法を通し、またアダマンタイト並に硬い場合が多い。この場合要するにミスリルやアダマンタイトの上位互換。
ヒヒイロカネは、これ比較的マイナーで、大概の場合オリハルコンとあんましかわらない気がする。

 これらの金属のうち、リアルな文献に登場する順番で一番古いのはアダマンタイト(アダマント)とオリハルコン(オレイカルコス)で、紀元前700年ころの文献に登場してるのだけど、これらはもともと単に硬い金属(鋼鉄)の意味のアダマント、オロスの銅(真鍮か黄銅)という意味のオレイカルコスであり、ファンタジー要素はあんましなかった。プラトンアトランティスで発掘されると書いたオリハルコンはなんかレアっぽい描写だけど、ここでもとくに魔法とか超常的な描写はない。

 オリハルコンがなんだかすげえ金属になったのは、アメリカのオカルティスト、エドガー・ケイシーアカシックレコードにアクセスして語ったとされる話に由来していて、これが20世紀初期に広まるわけで、実は結構「現代」の範疇に入ってからの話だったりする。僕らの世代では、海のトリトンが「オーリーハールーコーン!」と叫ぶと赤く光ってなんとかなるあの短剣のイメージである。

 ヒヒイロカネの由来は、日本の古史古伝竹内文書なのだけど、古史古伝とは、古事記日本書紀より前の「本当の歴史を記述した」古文書とされている。だけどこれらは幕末から明治以降になぜか突然「発見」されたもので、要するに実際は「発見」された時代に捏造されたものである。
ヒヒイロカネは緋緋色金とも書くように、赤い金属で、茶釜を作れば木の葉数枚を燃やしただけでお湯が湧くとか、ありえない熱伝導性を持ち、またダイヤモンドよりも硬いなどと言われているが、要するにエドガーケイシーのオリハルコンをパクったのではないかと思われる。

 ミスリルにいたっては、J・R・R・トールキンの明確なフィクション創作金属である。これに関しては、普通に作品のための設定であることがわかってるので、なんというか、名称を使ってもいいのかなってところだけ問題になるところだ。なんせ同じ作者による種族名の「ホビット」は著作権上簡単に使用できないものになってハーフリングとかグラスランナーという名前が使われたりしてるわけで。

 異世界転移ラノベなどで、こういう由来の異なる金属が同居する理由が気になる時があるのだけど、それを言い出すと、エルフやドワーフみたいな亜人種族がトールキンすぎる問題も生じるのである。あれらはヨーロッパでの妖精伝承トールキンが「種族」に改めたものであるので、なんともいえない。ラノベ作者たちと読者たちが共謀して「そういうもの」がある世界を作り出しているのであって、これはもう哲学兵装なのだ。哲学の波に飲み込まれて堪能しようではないか。

 あー、哲学兵装で思い出したが、シンフォギア5期楽しみだなあ。シェンショウジン(神獣鏡)がそもそも聖遺物じゃないんじゃねえ?っての哲学兵装で説明してくれるのかなあ。

勇者王ガオガイガーというオタク最強アニメ

 「勇者王ガオガイガー」は1997年に放送開始されたロボットアニメである。これはサンライズ勇者シリーズ最終作で、勇者シリーズは、ガンダムから始まるリアルロボット志向からは離れ、子供が主人公のスーパーロボット回帰路線の作品群だった。のだけど。

 この作品、すさまじいパロディ・オマージュに溢れたオタク志向の作品になっていたのだ。

 まずガオガイガーというロボット。黒くて禍々しいデザインはマジンガーZの系譜であり、マジンガーZが「神にも悪魔にもなれる」と作中で言及されたのと同様悪魔的なシルエットを誇る。そして第一話でいきなり敵ロボットを踏みつけ、翼を引きちぎるという。シレーヌの翼を引きちぎるデビルマンのオマージュをかます。以後敵の翼を引きちぎるのはTV最終回や、OVAガオガイガーファイナルでも踏襲される決めシーンになる。さらにファイナルにおいて、ガオガイガーは究極の破壊神と呼ばれ、ますますマジンガー的になる。

 ガオガイガーの通常技に、ブロークンマグナムというロケットパンチがある。これは当然マジンガーZのオマージュだが、この名前、車田正美の「リングにかけろ」のフィニッシュブロー「ギャラクティカ・マグナム」のパクリである。バージョンアップしたスターガオガイガーになると「ブロークンファントム」であり、これも同じ「りんかけ」の「ギャラクティカ・ファントム」である。

 巨大ロボットがまちなかで戦闘すると現実的に考えて偉い被害が出る。これをなんとかすべく開発されたのが「ディバイディングドライバー」。これを打ち込むと空間を湾曲させて直径10kmの戦闘空間を作り出せる。毎週東京が廃墟になってたら物語続かないだろうというオタクツッコミへの対処である。なんかすげえ。

 当初敵幹部として登場した、やたら空を飛ぶことにこだわるピッツァ。90年代のアニメキャラとしては異様に鼻がでかい。これ、敵に洗脳されたかつてのサイボーグ戦士だったのだけど、同型サイボーグがかつてたくさんいたが、その生き残り。正式名称がJ-002って、サイボーグ009で飛行能力を持つ002ことジェットかよ!どおりで鼻でかいわけだよ。

 サイボーグJとセットで宇宙戦艦Jアークがあるのだけど、この戦艦には生体コンピューターが搭載されていて、これがキャプテンハーロックのトチローのイメージ。もうなんでもありだよ。


 ガオガイガーの中盤以降の必殺兵器、ゴルディオンハンマー。見た目は金色のピコピコハンマーなのだけど、これ、柳生博司会のクイズ番組、「100万円クイズハンター」の「ゴールデンハンマー」なんだわ。そんなあほらしいパロディ兵器だけど、正式名称が「グラビティショックウェーブ・ジェネレイティングツール」重力衝撃波であらゆる物質やエネルギーを光に変えてしまう凶悪兵器である。そしてそんな話をナレーションでぶっこむと、もう子供向けスーパーロボットアニメの枠をぶっとばしちゃうのだ。ちなみにナレーションは次元大介こと小林清志である。あの落ち着いたしぶい次元の声で毎週ひたすら暑い説明をかましてくれる。いったい誰に向けた作品なのか。

 「成功率なんてのはたんなる目安だ。あとは勇気で補えばいい!」に代表されるカッコイイセリフ。こっぱずかしいけれと心地いい。とにかく燃える。中二病なんて言葉はそもそもみんなが燃えるものであって、恥じる必要はない。「待たせたな!」といえば「ガイ兄ちゃん!!」と護少年が返してくれるのだ。

 ガオガイガーは、結局従来の勇者シリーズの視聴者層たる少年にあまり受けず、玩具が売れなかったことで、勇者シリーズを終わらせたと言われているけれど、まさに当時幼児だったうちの息子ははまってたし、ジャスコの児童コーナーでガイガーいじってたし、マイクサウンダース13世のおもちゃ、バリバリーンつきで買わされたし、それほど間違ってはいなかったと思う。というか親が夢中になって見ていた。

 そんな勇者王ガオガイガーOVAのファイナルの最後、勇者王たちは宇宙の彼方に置き去りになるが、続きを予感させるエンディングで締められている。売れ行きによっては続きの予定もあったらしいので、ぜひなんとか続いてほしいものである。

「二度目の人生を異世界で」騒動に見られるヘイトの「常識化」

vergil.hateblo.jp
 アニメの声優が降板するなど、炎上している「二度目の人生を異世界で」だが、上記ブログにあるように、大戦中に3000人斬殺した人物が主人公であるという点と、また、作者がTwitter上でヘイト言論を行っていた事で問題になったわけだ。実は作中で主人公はバトルマニアっぽいところはあるものの、わりと普通に主人公してるので、この設定正直いらなかったりするのだが、それはさておいて。

 「小説家になろう」等のWeb小説で、主に中国韓国が登場する際に、2000年代以降のネット言論の影響が結構見受けられる。具体的な作品名をあげると炎上して続きが読めなくなる恐れがあるのでここでは避けるが、たとえば異世界で勇者をした日本人青年が、日本に戻ってきて社会の悪と戦うある作品では、主人公の活動がマスコミに無視もしくは悪意を持って喧伝される。実はマスコミに悪を行ってる「K国」や「C国」の人間が大量に混じっており、政治家にも影響を及ぼしてるという具合で、「マスコミ、野党、はては与党のアジア宥和派が特定アジアの手先となって反日工作をしている」というネット上の言論をトレースした設定が使われる。
 別の作品で、異世界で活動する元日本人が、日本とのゲートが開いて日本と行き来することになるが、この作品では中国を「中ノ華」という国名で、非道な軍事侵略国家として描き、日本のマスコミや政府にもスパイがわんさかいて、主人公は工作員に悩まされる。公安の一部なんかは味方してくれるのだが、日本の民衆や政府が中ノ華の手先に扇動されてるのでなかなかにやっかいという感じ。
 また別の作品で、異世界の魔族を率いる女王の治める小国の話がある。この国は人間の国に負けて弱っている。かつて支配していたゴブリンの小国は人間の国に鞍替えして全く正当性のないところでもやたらとうるさく騒いで「謝罪と賠償」を要求する。あきらかにネット上の韓国イメージを投影している。


 これらの作品の作者は必ずしも差別主義者であるわけではないだろう。読者が喜びそうな設定として中韓ヘイトを取り入れたのか、自分で信じているのかはわからないが、それは漠然としたネット上の雰囲気。中国や韓国を馬鹿にすれば楽しい、受けるという暗黙の合意を取り入れていると思われる。フィクションの設定であるし、それらのヘイト(作者は現実的なヘイトとは思っていないだろう)もフィクション上の悪役のわかりやすさであるとすれば、面白い作品の要素ではあるし、作品を中断させたくはない。だけど、中国や韓国出身の友達に、自分の作品を読んでもらったときにどう思われるか、すこしだけ考えてほしいと思う。

銀河英雄伝説のOVAはバブル時代ならではの企画

 現在銀河英雄伝説 Die Neue Theseが放送されているが、1988年に開始された石黒昇監督版は、当時としても特殊な販売形態をとっていた。あの企画が通ったのは、バブル時代ならではでなかったかと思う。

 1980年代、家庭用ビデオデッキが普及し始め、レンタルビデオ店が生まれた。それまでアニメは劇場公開用大作か、TVでの大手企業がスポンサーとなって制作されるものだった。ビデオの普及に伴って、セル及びレンタルでの、ビデオ用に新作アニメを制作するという、OVA作品が生まれていくが、これは当初実験的な一話完結ものが中心で、人気が出ても数話程度。映画とテレビの中間的な長さ、40分~60分くらいのものが多かった。また、ビデオテープは案外容積を食うので、長期連続の50本とか100本を売るという発想にはなかなか至らなかった。パイオニアレーザーディスクがヒットした時期に、30cmと面積はでかいが、薄いためにTVシリーズの全話ボックスという発想が生まれる。200話になんなんとするうる星やつら全話LDボックス(50枚組)が33万円という価格でアニメオタクたちに大ヒットした。これが1987年。バブル経済の開始と言われる時代である。この事件が、「オタクはコンテンツに限りなく金を出す」という根拠になる。

 今一度確認しよう。当時のアニメシリーズというものは、大手企業のスポンサードで制作されていた。MXや地方局の深夜枠で宣伝して円盤を売るビジネスが成立しておらず、あくまで製菓、玩具、薬品等の日用品メーカーが、自社のCMを流して視聴者に社名や商品を覚えてもらう代償としてアニメを放送していた。すなわち、コンテンツ自体を売るのではなく、コンテンツに惹かれてきた消費者を捕まえる餌だったのだ。この時代、TVで放送されるのは、アニメオタクではないスポンサーを説得できる作品であり、人気漫画原作であるとか、従来放送されてきた作品の延長だった。その中で、石黒監督がそらくハマったであろう小説版銀英伝のアニメ化は難しい話だった。

 新書10巻の原作、そして当時のアニメ監督の視点で補完すべき要素、SFの説明に必要な部分など、諸々足すとかなりの長編になる。バブル時代以前、70年代末から、アニメブームは始まっており、しかも都合のいいことにSFのアニメ全盛期だった。というか、石黒監督が作った宇宙戦艦ヤマトがアニメブームを牽引した。ヤマトの監督は表向き松本零士先生だが、アニメとしての監督は石黒昇である。ヤマトの西崎プロデューサーみたいに、口八丁手八丁でTV曲を騙すことは石黒監督にはできなかったんだろうと思うが、とにかくも、長編OVAを一本作成し、映画公開して映倫マークをつけることで箔をつけることは可能だった。バブルが始まったあのころ、TVシリーズパイロット版として映画兼OVA
制作することはよく行われた。

 映画、ドラマに限らず、スポンサーに見せて制作予算を得るためのパイロット版という作品は制作される。「こういう作品を考えてます。投資して下さい」というためのものだ。昔はほんとうにスポンサーに見せるためだけの短編を制作していたのだが、銀英伝の場合はこれが劇場用第一作「わが征くは星の大海」という60分の作品になる。これは宇宙暦795年の惑星レグニッツァの戦いと、第四次ティアマト会戦を描いた作品で、原作の外伝を膨らませて、ヤン・ウェンリーを活躍させ、原作後半で登場するアッテンボローも登場させ、原作最終盤のブリュンヒルト突撃作戦までをも混ぜた、原作本編のいいところをすべて取り込んで一本の作品にまとめたものだ。いわば銀英伝のエッセンスをすべて詰め込んだ作品である。これを劇場公開した結果、TV放送枠はとれなかったが、マニアが買うと判断されたのか、毎週一話制作された25分のアニメを、VHSテープで予め申し込んだ人に通信販売という、極めて特殊な販売形態がとられることになる。このとき、一話一本の価格は2500円プラス送料500円。つまり毎週3000円を支払い続けるという契約が結ばれた。

 うる星やつらLDボックスが、33万円で売れたのが1987年。銀英伝OVAを開始が1988年。当時銀英伝が最終的に何話になるか決まってなかったと思うが、100話になっても30万円だから、オタクは買ってくれると見込んだと想像できる。この微妙に高い見込み発車感がいかにもバブル時代だなあと思うのだ。現代なら、ディアゴスティーニも毎週3000円の本は売らないんじゃないかなあ。

うなぎ絶滅危機についての雑感

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告白すると僕は去年5年ぶりくらいにうな重を食べた。この位の頻度は許して欲しい。それはさておき、うなぎがほんとにやばい。今年のシラスウナギの不漁はもしかしたら海流の変化によるものかもしれないけど、ここ何年もやばいと言われ続けているのであって、現実的に最低限一定期間(数年単位で)禁漁するなどの緊急対策が必要だと思う。一体なぜこんなことになってしまったのだろう。

スーパーで気軽に買えるようになったというが、これは昭和の時代から土用の丑の日などにセールを行う習慣はあった。だがある時期から年中売られるようになり、価格も下がっていった。1990年代に、コンビニ弁当にうな重が登場するのだが、初期の頃は「コンビニで豪華な弁当は無理」という当時のコンビニエンスな常識もあり、5cm四方くらいのうなぎの切れ端が乗った弁当が売られたりしていた。ここで無駄な企業努力が牙をむく。コンビニのうなぎ弁当もどんどん豪華になり、かつ価格は抑えられる。スーパーも輸入うなぎを中心に安価な蒲焼きを売るようになる。デフレ時代特有の価格圧力がガンガン原価を下げ、大量に消費されるようになっていく、2000年代に入った頃だったか、セブンイレブンが「土用の丑の日は夏だけではありません」と真冬にうな重を売り出したことがあった。もう完全にうなぎ需要をむりやり掘り起こして売りまくる作戦である。

需要の掘り起こしと低価格化。これがうなぎを絶滅に追い込んでいる。夏の土用の丑の日の、年に一度の贅沢。もしくはもともと高価なうなぎ専門店での外食だけなら、そんなにひどいことにはならなかったろう。

2,3年前のTVで、うなぎを買い付ける商社がヨーロッパ、東南アジア、アフリカまでうなぎを買い付けに行き、シラスウナギからの養殖事業を立ち上げるさまが描かれていた。もはや日本だけではないのだ。

シラスウナギの養殖は、天然の成魚だけ獲るよりはましだが、やはり根こそぎの資源収奪である。ほんとうの意味での養殖、卵から育てて産卵させるサイクルを作る試みもかつてあって、恐ろしいほどの失敗を繰り返してなんとかがんばっていたはずだが、その後実用段階に達したという話は聞かない。まだだめなんだろう。いずれ成功するかもしれないが、天然より高いがサイクルが確立した近大マグロの段階にも至っていないと思われる。そしてこのままでは、本当の養殖サイクルができる前に絶滅しそうである。5年後、10年後、30年後にうな重を食べられるように、今我慢すべきだと思う。

手塚治虫の「フィルムは生きている」

「フィルムは生きている」は、手塚治虫が昭和33年から「中一コース」「中二コース」で執筆した作品で、田舎から出てきた少年、宮本武蔵がまんが映画(アニメーション)を作るまでを描いた作品だ。主人公の名前からわかるように、この作品は有名な宮本武蔵の物語をベースにしている。田舎者の武蔵に対し、ライバルとなるのは資産家の息子の佐々木小次郎だ。

物語の冒頭、武蔵はアニメーションを制作しているプロダクションに行くが、ベテランアニメーターの断末魔に、「君の絵は死んでいる」とダメ出しを食らう。断末魔氏は、40年もまんが映画にささげている初老の男なのだが、偏屈で理想主義過ぎ、会社でも煙たがられている。

その後、有名漫画家の吉岡清十郎のところに行くがやはりけなされて道端で似顔絵描きに身をやつすのだ、ここで佐々木小次郎と出会い、お互いがまんが映画を作りたいという目標を持っていることを知り意気投合。武蔵の下宿に小次郎が住み込むことになったりするが仲違いして別れる。

やがて小次郎は連載12本を抱える人気漫画家になるが、少年パックの編集者が武蔵の才能を見抜き、まんがを掲載することになる。武蔵のまんがはすごい人気だったのだが、「まんが映画を作る」という目標のために連載をやめる。やがて二人はそれぞれ映画製作にのりだし、同日に公開されることになる。


この作品において、基本的に武蔵は田舎から出てきた報われない努力型の人間であり、小次郎はなにかと恵まれた天才として描かれるのだが、多分どちらも手塚治虫自身の投影である。天才と呼ばれ、恵まれた仕事状況にありながらも努力を続けざるを得なかった。そして漫画とアニメの間の断絶。動く絵が「生きている」ためには、ただ漫画がうまくてもダメ。「お前の絵は死んでいる」と常に考え、絵を生かすために悪戦苦闘した手塚の、アニメ制作に向けたものすごい決意表明なのだ。

この作品が描かれたのは昭和33年。手塚が参加した東映動画の「最遊記」が昭和35年。鉄腕アトムのアニメ放送開始が昭和38年である。つまりこの時期手塚は、人気漫画家ではあったがまだアニメ制作のメドが立っていない時期だ。それを考えると非常に興味深い。

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枝野幸男氏の「お祝い」騒動について


このツイート主のテキスト書き出しは
草津白根山の噴火によって訓練中の自衛官が亡くなった事に心から哀悼の意を表します。また被害に遭われた皆さんに心からお祝いを称します」
このツイートにつながるスレッドの大多数がこの「お祝い」を受け入れ、枝野氏を批判している。だがおかしいだろう。自衛隊員の死亡について哀悼の意を表しておいて、その他被害にあった民衆をお祝いするのは前後で意図が合わない。いわゆる左翼へのステロタイプなら一般民衆への被害を大きく盛り上げて、自衛隊の被害は目をつぶるイメージだろう。これは枝野氏を左翼として批判する論理として破綻しているのだ。だがスレッドの反応は「何度聞いても『お祝い』と聞こえる」「本音が漏れちゃったんだね」というような表層的な阿諛追従だらけで、矛盾に目をつぶっている。

そもそも枝野氏のこの発言は正確には
草津白根山の噴火によって訓練中の自衛官が亡くなった事に心から哀悼の意を表します。また被害に遭われた皆さんに心からお見舞いを申し上げます」
であり「お祝い」ではなく「お見舞い」である。この部分の滑舌がいまひとつよろしくないので「お祝い」と聞こえるという話であって、本人が「お祝い」と言おうとした証拠はない。また、「言い間違えにしてもひどい」「本音が漏れたのだろう」という話に関しては、そもそも言い間違えではなく、聞き取りミスなのであって、いわゆる政治家の失言ですらない。本音とはなにか。枝野市が、噴火で民衆が被害をうけることを喜んでいると思っていなければ「本音」という観測は出ない。つまりこれを言う人達は、枝野氏が自然災害で無辜の民が被害をうけることを喜ぶ人間だと思っていることになる。

これはどういうことだろう。そんな安直な悪魔的存在を本気で信じているのだろうか。現代社会において政治的な対立は絶対善と絶対悪の戦いというような簡単な図式にはならない。対立相手を単純に邪悪な存在として切り捨てようとすれば、社会はどんどん閉塞していく。行き着く果ては大虐殺だ。

今僕は非常な危機感を抱いている。