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征夷大将軍は本来東方の蛮族を征伐する役職

 「征夷大将軍」は、源頼朝鎌倉幕府を作って以降、日本の政治的トップの称号になっていったけど、もともとの「征夷」は東夷を征する意味である。

 もともと中華思想で、世界の中心たる中華の周囲を囲む蛮族を東夷、西戎、南蛮、北狄と呼称したものを日本に引っ張ってきて、畿内から見て関東、東北太平洋方面を東夷、日本海側を北狄、四国、九州方面の西日本を西戎に見立てて、東北方面侵攻の責任者を征東将軍、征夷将軍とし、日本海側に対しては征狄将軍、九州方面は征西将軍をたてていた。征東将軍がやがて征夷将軍征夷大将軍と変化したので、東の文字が消えているが、征夷大将軍はあくまで「東夷」に対する軍事的役職だった。東北の蝦夷を平定した坂上田村麻呂などが有名だ。

 

 藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こした時、藤原忠文征西大将軍に任じられたりしてるので、東の征夷大将軍に対応する役職は西にもあった。

 

 こういった古代の将軍職は、都から離れて目的の敵に対応する限りにおいて、天皇の代理として行動することが許可されており、中央の手が届かない地方においては、最高権力者として振る舞うことが出来た。ただし、あくまで敵を倒す戦争中において任じられる臨時職のようなもので、将軍を世襲するようなものではなかった。

 

 坂上田村麻呂蝦夷を平定したあと、陸奥国鎮守府が置かれ、ここに軍権を掌握する鎮守府将軍という役職ができる。征服地を軍政で支配していたわけだ。鎮守府将軍の地位を得た奥州藤原氏は、事実上朝廷から独立した王国の如きものを作っていた。もちろん朝廷や有力貴族に奥州の金や毛皮等贈答して懐柔する努力あってのものだが。

 

 鎮守府将軍の力が及ぶ範囲は陸奥、出羽に限られていた。源頼朝鎮守府将軍藤原氏の奥州支配のやりかたをしっかり勉強していたはず。では藤原氏を滅ぼして自分が鎮守府将軍になればいいのか。頼朝の本拠は関東であって奥州ではない。奥州鎮守府に結び付けられた鎮守府将軍ではなにかと不自由だろう。また、当初朝廷からもらった権大納言、右近衛大将は参内の義務があり、関東支配にはむかなかった。近衛だから朝廷を守る軍隊を指揮しなきゃいけないのだ。

 

 頼朝は自分から征夷大将軍の地位を希望していた。もともと戦時臨時職であり、坂上田村麻呂以降誰も任官していなかった役職だ。正確には、大将軍でない征夷将軍や征東将軍は存在したが、征夷大将軍は300年位出てない役職だったのだ。なんか昔話のえらい将軍みたいな感じである。頼朝はそれを欲しがった。鎮守府将軍みたいに支配地が決まっていない。かつ現地総司令官としてあらゆる行動が委任される。頼朝、「やべえ、これ最強じゃね?誰も気付いてない?俺だけ?征夷大将軍なっちゃおーかー」みたいな感じだったのだろうか。

 

 実はちょっと前に源義仲征東大将軍の位をもらってる。朝廷は平氏に牛耳られてた状態を嫌がって源氏に助けを求め、最初に京都を開放したのが義仲だったわけだけど、こいつ京都でさんざん横暴働いて「関東の武士は礼儀を知らない乱暴者」ってイメージを作り上げちゃった。同じ源氏の頼朝としては「あいつより偉い官位もらわないと」って意識もあったんだろうね。征東大将軍征夷大将軍、どっちが偉いのかよくぅあからないけど。いろいろあって征夷大将軍をもらう。はたして朝廷はこれが世襲の政治的トップのちいになると考えてたろうか。あくまで頼朝個人に褒美として与えたつもりだったんじゃねえのかな。

 

 後の時代に征夷大将軍の政府を「幕府」と呼ぶようになるけど、「幕府」ってもともとは戦争中に天幕貼った臨時司令部の意味だったんだよな。

 

 んで、頼朝は義経が逃げ込んだからと奥州藤原氏を討伐しちゃう。これ、藤原氏が頼朝の圧力に屈して義経殺して首を送ったのに、「今まで匿ったし、勝手におれの弟殺すとはなにごとか」って因縁つけて当時京都以上と言われた平和な平泉を焼き滅ぼし、御家人の褒美に奥州を分配しちゃう。奥州にしたらたまったもんじゃねえ。

 

 そんな身勝手な侵略しといて「東夷を撃滅したから征夷大将軍くれ」だよ。頼朝何様だよ。俺様だよ。そもそも義経討伐令も、頼朝が朝廷に圧力かけて出させたもんだしな。

 

 そんなこんなで成立した鎌倉幕府、当初は東国しか支配してなかったらしい。徐々に京都に六波羅探題とか置いて陰湿に公家と皇室をいじめていくけど。

 あと守護、地頭の配置で貴族の荘園を徐々に削ってったり。なんだかんだで日本全国を支配するようになるころには頼朝の子孫が途絶えて北条氏の執権政治になっていくのだが。ざまあみろ頼朝。

 

 でさ、なんか後の時代に征夷大将軍は源氏じゃなきゃみたいな話になるじゃん。あれなんで?坂上田村麻呂は源氏じゃないだろ。平氏の信長に征夷大将軍が朝廷から提示された説とかあるじゃん。やっぱ事実上朝廷政府を無力化して武家政権作った頼朝を元祖とみなすから?

 

 なんていうか、清盛の平氏政権は朝廷に食い込んで専横する形だったけど、頼朝の幕府政権は朝廷から変に独立してるじゃん。その後室町も織豊も徳川も朝廷のシステムを解体はせず、それと別に現実的な支配をしてるんだけど、ずーっと朝廷には政治官僚システム残ってたんだよな。明治時代まで律令が存続してて、行政官もずーっといる。でもこれなんか実際に国の政府としては機能してなかった。なんだろこれ。明治維新のときも、これまでシステムが残ってたからこそ天皇太政官の政府を速やかに作れたわけだろ。朝廷なにものだよ。