読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

帝国と王国のあいまいさ

歴史

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/83/Vexilloid_of_the_Roman_Empire.svg

帝国と王国の違いはなんだろうか。

現代的な、漠然としたイメージとしては、帝国のほうが王国よりも格上で、好戦的で、侵略膨張主義的というのはあるだろう。「帝国主義」といえば他国をどんどん侵略して支配地域を広げるイメージだし。

 

ところで、漢字の「皇帝」はもともと秦の始皇帝が由来であるが、この場合は殷や周、春秋戦国時代の「王」に対して「よりえらい君主号」として、神話の三皇五帝からとって「皇帝」という号を発明したものだ。一方「帝国」はローマ帝国の「インペリウム」の翻訳造語である。中国の王朝で君主が皇帝であった秦も漢も元も宋も明も清も国号に「帝国」とつけてはいない。現代俗に「漢帝国」などと表記される場合はあるが、これはあくまで19世紀以降にヨーロッパの「帝国」の用法を引っ張ってきてあてはめてるだけだ。清崩壊後、孫文に掛け合って中華民国の臨時大総統になった袁世凱が、皇帝に即位、中華帝国を建国したが、全然相手にされず、1年で消えている。

 

ヨーロッパにおいて「帝国」とはもともとローマ帝国の事だった。しかし、「帝国」を意味するインペリウムラテン語で「支配権」「統治権」という意味であり、別に多国を支配する事とも、皇帝に統治権が集中することとも関係がない。ローマ帝国を意味する「Imperium Romanum」はつまり「ローマによる統治」ということになるだろう。ちなみに、古代ローマの国旗というか国章に表記されるのは「SPQR」、意味は「元老院とローマ市民」である。これは共和制、帝政の両方で使われ続けた。ローマ皇帝の称号は「インペラートル」「カエサル」「アウグストゥス」などがある。「インペラートル」は軍司令官。英語の「エンペラー」はこれに由来する。「カエサル」はシーザーことユリウス・カエサルの家名、「アウグストゥス」はオクタビアヌス元老院から送られた「尊厳者」という尊称である。つまり、ローマ皇帝とは、少なくとも初期においては元老院から軍権、カエサルの後継者、尊厳者の称号を贈られ、国家統治を委任される立場でしかなかった。王家の血縁で支配権が固定されるのではなく、あくまで議会から統治を委任されるのがローマ皇帝であり、おそらく古代王政から共和制へ移行したローマならではの統治システムだったのではないかと思う。ローマが周辺諸国を侵略し、属州、属国として収奪していたのは初代皇帝オクタビアヌス以前の共和制期からのことで、現代的な「帝国主義」を当てはめるなら「共和制ローマ」はすでに「帝国」であった。

 

余談だが、SPQRに含まれる「ローマ市民」というのは、現代の国家における「市民」の概念とは少々異なり、一種の特権階級だった。ローマの法律は市民会議で決定され。属州からの収益と奴隷労働により、「ローマ市民」は労働から開放され、政府の方針に反抗する事が少なかった。「パンとサーカス」と言われるように、食料と娯楽がローマ市民には無償提供され、労働しなくても生活出来たのだ。いいなあローマ市民。カラカラ帝あたりから、市民権のバーゲンセールが始まり、旨味が少なくなっていくのだけどね。やっぱ特権階級は少数じゃねえとうまく回らないんだよな。

 

まあ、要するに「帝国」の「皇帝」ってのは、富の集まる大国の複数の権限がなんとなく集まった結果であって、意外と権威的なものがあとづけだった。たとえば現代の民主主義国たる日本で、ある個人が総理大臣と外務大臣総務大臣厚生労働大臣財務大臣防衛大臣を兼ねたとしよう。日本国の基本は変わっていないが独裁者がなんとなく出現している。これがローマ共和国からローマ帝国への変化だったのではないかな。

 

広がりすぎたローマ帝国は東西にそれぞれ正帝副帝を置き、分割統治するのだが、西ローマがゲルマン人の大移動で崩壊する。傭兵隊長オドアケル西ローマ皇帝を退位させ、西ローマ皇帝の地位を東ローマ皇帝に返す形をとった。オドアケルはいわば統一ローマ帝国の西半分を預かる代官という地位に就いた。なのでこの時点では形式的には西ローマの滅亡ではなく、東西ローマの再統合とみなしてもおかしくない。以後西ヨーロッパには各種の王国が成立するが、それらを東ローマは己の宗主権の下にあるとみなしていたし、西欧各国もそれに甘んじていた。これが、皇帝の方が王より偉いという認識の元である。やがてフランク王国が勃興。カール大帝が「ローマ皇帝」として戴冠する。ただし、東ローマとしてはあくまで「ローマ帝国の皇帝はこっちだけ、あんたは「ローマ人の皇帝」っていう伝統的なローマ皇帝の地位とは認めないよ。うちの帝国の中の格下の王国のひとつだからね」ってな認識だった。でもまあ、西としては「こっちも東と対等なローマ帝国だよ」って言いたかったんではないかと思う。

 

その後フランク王国はゲルマンの「子供に土地分けるわ~」相続で、3つの国に分かれる。フランス、イタリア、ドイツの起源である。で、なんか「イタリア王」の地位を得ることが「西ローマ皇帝」の条件みたいな話になって、主にドイツの王権がなにかとイタリアに進出したがったりして、なあなあで「神聖ローマ帝国」となっていく。

 

さて、1204年、第四次十字軍が、なにをとち狂ったか東ローマ帝国を滅ぼし、ラテン帝国を建国するという事件が起こる。このラテン帝国というのは歴史用語であって、正式な国名はロマニア帝国、ローマ人の土地という意味のロマニアを冠し、東ローマ帝国の後継国家を目指していた。十字軍から逃げ出した東ローマの皇族がニカイア帝国をたてて対抗、やがて首都を奪還して東ローマは再興されるのだが、ニカイア帝国の正式名称は亡命政権時代でも「ローマ帝国」であった。

 

「フランス」は「フランク」の国名を一番残してるが、長い間ローマ帝国にこだわることがなかった。その間ドイツが「神聖ローマ帝国」だったのだが、これ統一国家というより小国の集合体で、あんまし力のない「皇帝」位を選帝侯の綱引きで決めるだけの国になっていく。18世紀には「神聖でもなければローマ的でもない、そもそも帝国ですらない」と評されるようになるのだが、それでもこれは名目的には、カール大帝の戴冠に始まる「ローマ帝国」。東西分割したローマ帝国の西半分を継承するのが神聖ローマ帝国だったのだ。

 

一方東ローマ帝国は1453年にオスマン帝国に敗れ、滅亡するが、ロシアのイヴァン三世が東ローマ皇帝の姪と結婚していたので、これ以後ロシアの君主がカエサルに由来するツアーリという皇帝号を自称することになる。つまりロシア帝国東ローマ帝国の後裔という立場をとったわけだ。

 

オスマン帝国はまあ、ヨーロッパの帝国ではないので置いといて、ヨーロッパにおける帝国というものは、このようにローマ帝国の後継者という意味合いがあった。ところがナポレオンがフランスを帝国にしてしまう。あれはローマ帝国の後継というより、ローマ帝国の再現なんじゃねえかな。破竹の進撃でヨーロッパの覇権を握り、凱旋門を作ったりするあれは、自分をカエサルになぞらえてフランスを新たなローマにしようとしたよね。

 

30年戦争で死に体になってた神聖ローマ帝国ナポレオン戦争で帝国を維持できなくなる。このころには神聖ローマ帝国ハプスブルク家世襲帝国となっていて、皇帝フランツ二世はハプスブルク家の本拠オーストリアだけ確保して「オーストリア帝国」を建国し、神聖ローマ帝国を解散する。そののちハンガリーと合併してオーストリア=ハンガリー帝国になる。このオーストリア=ハンガリー帝国西ローマ帝国の末裔に含めるなら、古代ローマ帝国は東はロシア帝国として、西はオーストリア帝国として、第一次大戦まで残っていたことになる。そしてこの戦争中、ロシア革命によって東ローマの末裔が崩壊。その後オーストリア革命によって西ローマの末裔が滅んだということになる。どっちも明らかにローマ的ではなくなり、それぞれ紆余曲折あったが、ほとんど同時期に消滅したというのはなんだか感慨深い。

 

ナポレオンがローマ帝国の伝統に関係なく帝国を作ったことで、かつての東ローマと西の諸王国の関係にはじまる皇帝の王に対する優位というイメージを保ったまま、なんか君主や国家が偉そうにしたい場合に「エンペラー」「エンパイア」な感じの「皇帝」「帝国」を名乗ることができるようになる。旧神聖ローマ帝国のなかで、オーストリア帝国のほかに、プロイセンを中心とするドイツ帝国も存在した。西欧文化に対抗して極東の日本も天皇を対外的に「エンペラー」として「大日本帝国」を名乗るようになるし。戦後も中央アフリカのボガサが皇帝に即位して中央アフリカ帝国なんてのを、おどろくなかれ1976年に設立している。まあ これはフランスからすげえ借金してむちゃやったんで、あっというまにクーデター起きてつぶれたけど。