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コンピューターリテラシーは夢物語じゃないか

 コンピューターリテラシーとはなんだろうか。「リテラシー」というのはもともと「読み書きできること、その技能」という程度の意味だ。ある分野で「リテラシー」というと使いこなせる、十分な知識がある、というような感じだろうか。

 そのうえで「コンピュターリテラシー」という場合、何を思い浮かべるだろう。パソコンを使いこなす技能、という感じだろうか。デスクトップパソコンなら、起動してマウスとキーボードで操作し、アプリケーションソフトを使える。まあワードとかエクセルが使える「パソコン教室」で覚える知識くらいの感覚で捉えることが多いのではないかと思う。

 ちなみに「コンピューターリテラシー」という言葉は、アラン・ケイの造語である。彼が考えた「コンピューターリテラシー」というのはワードやエクセルが使える程度のものではない。

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ジミーとベスがやっているゲームは「SpaceWar」。宇宙船を撃ち落とし合う「宇宙戦争ゲーム」だ。ゲームをしているうちに、ジミーは宇宙船の動きがおかしいことに気付く。そして、ジミーとベスはこんな会話をした。「星の近くを飛んでいるから、宇宙船は重力の影響を受けるはずじゃない?」「この前、理科で習ったよね」「この動きは変だよ」「じゃあ、重力の影響で動きが変わるように、プログラムに組み込んでみよう!」。これが、アラン氏が考える「コンピュータリテラシー」である。コンピュータリテラシーと聞くと、パソコンで読み書きする能力やインターネットに関する知識をイメージしがちだが、実はそうではない。コンピュータは、どのようなメディアにもなり得る能力を秘めている。従ってその読み書き能力(=リテラシー)とは、コンピュータを使って課題を解決するだけにとどまらず、メディアを作り出す能力を持つことを意味する。

 

 プログラムを使いながら、そのプログラムを自由に改変してしまう。そんな技能が「コンピューターリテラシー」なんである。ジミーとベス理系すぎとか、そういうのは「ハッカー」というんじゃねえかと思えるけど、アラン・ケイが構想し、実際に作り上げた「暫定版ダイナブック」、AltoとSmalltalk環境では実際上のようなことが理屈の上では可能だった。Smalltalkってのは動いているプログラムの中身を、その場で完全に見て、すぐさま変更することができるような環境なんである。

 

 しかしどうだろう。あらゆるものが開示され、変更追加可能である環境って殆どの人にとって恐怖の対象ではないだろうか。OSの中身だっていじり放題。「パソコン動かなくなったんだけど」「何かしたでしょ」「何もしてないよ」な一般人にはとてもじゃないが触りたくないシロモノだと思う。

 

 「なんでもできる」ためには本当にその対象に対してきっちりした知識が必要なわけで、そのための「リテラシー」であり、ケイは柔軟な子供にはそれが可能であると考え、子どもたちにその「リテラシー」を身につけさせようと考え、思いつく限りそれが可能なシステムを作っていたのだが、やはりそれは複雑すぎるんじゃないかなあと思うのだ。

 1970年代にアラン・ケイはこれを実現しようとしていた。「暫定版ダイナブック」であるAltoとそのOSであるSmalltalkを子どもたちに使わせ、論文を書いて、将来普通の人たちが「コンピューターリテラシー」を身につけ、自由にコンピューターを(そういう意味で)使いこなす世界を夢想したに違いない。しかしそんな世界は未だ到来していない。XEROXがAltoを飼い殺したとか、Altoの影響を受けたMacWindowsがAltoの美しいGUIだけパクってSmalltalkの柔軟性を捨てたとか、そういう事情がなくて、もしMacWindowsの前に本来の構想通りの安いダイナブックが登場し、その後のコンピューターの主流になって、誰もがSmalltalkの発展形な感じの環境を使えるようになってたとしても、ゲームにふと思いつきで重力方程式を組み込むようなのが普通のコンピューターの使い方になっていただろうかと思うと、そうではないんじゃないかなあと思ってしまうのだ。それができるのは結局プログラミング好きな一部の人ってことになるんじゃないかなあ。