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宮沢賢治について、岩手出身者のあるコンプレックス

歴史 雑談

岩手県民にとって宮沢賢治とは一種のカリスマである。岩手の農民に寄り添い、農業改良に務めた人であり、かつ、この上ない詩人であり童話作家であり科学者でもあった。エスペラント語に精通し、糞田舎の山の中の河原に「イギリス海岸」なんて名前つけるドリーマーである。しかし彼は岩手の農家に生まれた人間の、自分や家族、親戚やらなにやら、親しいがゆえに忘れたい「田舎者」を想起させる容姿をしているのである。こう言っては各方面に失礼だが、斎藤清六や、ガッツ石松に似ていて、あまり知的には見えず。戯画的な「田舎者」に見える。

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詩人なら中原中也みたいな美少年な写真を残してほしい。科学者ならメガネで知的なインテリな姿を残してほしい。しかし宮沢賢治はあまりに田舎の親戚のおじさんみたいな顔をしているのだ。出版社や書店が「宮沢賢治フェア」をやるときに、イメージに使うのは畑をうつむき加減で歩くコート姿の賢治の写真である。

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あれは顔があまり見えていない。さらに場合によってはそれを完全にシルエットに加工したイメージを使う。つまり出版業界も宮沢賢治の顔を隠したいのである。どん百姓にしか見えない容姿は繊細な詩人、作家にはふさわしくないのだ。

 

そういうコンプレックスを自覚すると、「雨ニモマケズ」の詩も素直に受け取れなくなる。どれほどあの詩に共感を覚えても、そんなデクノボーはいやだ。理解されなくていい境地にはなかなかたどり着けないと思ってしまう。そういう意味で、ああいうのってむしろ都会生まれの脱サラ農家やりたいような人に向いてるのかなと思う。

 

田舎者のコンプレックスは自分の出自が「ダサくてかっこ悪い田舎」という被差別階級であるという事実を否定したい欲求であり、ゆえに自分の故郷たる田舎を否定してしまうものなのだ。