「差別はいけないこと」という共通認識


ヘイトスピーチに「日本社会が変わってしまった」 NPO法人が聞き取り調査

 

この記事を読んで思ったこと。

 

民族や出身地域その他、ある特定の人、もしくは人々のグループを差別し、悪しざまに言うことは昔から常にあったし、個々人の差別意識を根絶するというのは実際不可能であろうと思うのだ。全く差別だとは思っていなかった言葉が、相手を傷つけて初めて差別だったと気づくこともあるだろう。ただ、20世紀後半あたりでは少なくとも差別を表に出し、あからさまに差別発言をすることは「いけないこと」であるという認識はあったはずだと思うのだ。そのように小学校から教わってきたはずだし、そういう事を言う教師に対して「先生うぜえ」とか思っていても、また、同級生や近所のマイノリティに対して差別的な気持ちがあったとしても、それをはっきり表に出すのはためらわれたはずだ。なぜなら、差別意識を表に出すというのは、自分が悪人であると表明する事であったからだ。

 

しかし在特会などのデモではもう、なんというか仲間とともに自己実現するようなキラキラした目で、誰はばかることなく大声で聞くに堪えない差別言論が放出される。なぜこうなってしまったのだろう。

 

学校教育で「差別はいけないこと」と教わってきたはずと書いたが、こういうのは最近ではネット上では左翼日教組反日教育の一種とみなされてるのではないだろうか。教師は日教組という左翼組織の一員であり、反日で中国韓国のシンパ。日本を貶める工作だったという「発見」をしてしまえば、一気に価値が逆転し、差別とされたことが正義になる。実際の所現在の学校教育において日教組の力は全く減退し、個々の教師は過酷な労働に悲鳴を上げる労動者になってしまっているのだけど。

 

ちなみに僕が小中学生だった1970年代の教師は呆れるほど左翼な人が多くて、公務員のストライキが違法なのにスト権獲得のためのストを決行したり、オイルショック当時に自宅に炭を積み上げ、独占資本の電力会社の世話にならないと強がったり、「今年の授業は教科書を使わない、この副読本を使うから」と言って、戦犯容疑者の佐藤栄作ノーベル平和賞をもらったのはおかしいとか力説する連中だったのだけど、だいたいにおいてこちらとしては冷ややかに見ていた。当時も「左翼しょーがねーな」という空気だったのだ。

1980年代以降はサヨク教育なんて減退して、右翼的な管理教育が問題になってたくらいなんである。広島あたりで丸坊主強制とか言われてたよ。

 

話がずれてしまったけど。差別問題は2000年代以降、インターネットでだんだん無化されていったような気がする。日本でインターネットが普及したのは1990年代の後半からで、従来の倫理観にとらわれない言論が出現しだした。アングラ的で、タブーを破るのがカッコイイ文化。それはすごく面白かったんだけど。アングラであるかぎりはよかった。アングラ文化ってのは、差別もなにもマイナーであることを受け入れた上で自分を痛めながら楽しむものなんだよね。

 

差別にしても、差別者の美学とか面白さを狭い中で遊ぶ範囲ではいいのよ、マゾヒスティックな遊びね。そこには決して認められない悪の喜びがある。

でもさ、差別ってのは本来相手が苦しむものであって、差別するほうが苦しむってのは倒錯した変態行為でしかないのよ。差別者が、「自分は許されない」と思ってるから勃起できるわけで、差別するほうがメジャーになっちゃったらただのいじめにすぎないんだよね。表にでてデモ行進やって、「良い韓国人も悪い韓国人も殺せ」とか叫んじゃったらだめなんだよ。それはただのいじめで、カッコ悪いんだよ。

みんなカッコ悪い変態になりたいの?