ベルリンの壁崩壊直後のソ連で飛行機乗り換えた思い出

1989年11月にベルリンの壁が崩壊して25年が過ぎた、僕がはじめて海外旅行をしたのは1990年2月。ロンドンに二週間滞在したのだが、このとき使用した航空会社が当時のアエロフロート・ソビエト航空であり、成田からロンドンへ行く途中モスクワで乗り換えだった。

なぜわざわざソ連の航空会社を使ったかという話だが、当時は格安航空券のブームで、エービーロードなどの旅行情報誌を見れば「ツアー」とは名ばかりの航空券のバラ売りツアー(最低催行人数2名、添乗員なし、ホテルなしとかのツアー)」の情報が一覧できたので、その中で一番安いのを選んだらアエロフロートだったという話である。よく覚えていないが、ロンドン二週間のツアーで10万円を切っていたのではないかと記憶している。当時ロンドンに知人が住んでいたので、格安のフラット(週払いの下宿みたいな宿)を手配してもらってでかけたのだが…

機体は確かツポレフTu-154だったと思う。窓ガラスにひび割れがあったり、二重ガラスの外側がない窓があったりという恐ろしいシロモノだった。よくあれ飛行が許可されてたなあ。搭乗券に座席番号は書いてあったのだが、実際は早い者勝ちで座席が確保できて、機体前方4列位の席は同じエコノミーなのにやけに座席間が広く、足を伸ばして座れるという謎仕様だった。食事のパンはボソボソしてまずいが、肉料理はまずまずという感じだったと記憶している。

乗り換えのためにモスクワのシェレメチェボ空港に到着したのだが、なんとなく閑散とした薄暗い空港だった。ターミナル内に日本食レストランがひとつあった。利用しなかったが、当時おそらくソ連内ではかなり珍しい、ひょっとしたらソ連最初の日本食レストランだったかもしれない。そう思うと食べておくべきだったかと思ったりする。まあ、貧乏旅行だったし、日本から外国に初めて入っていきなり日本食を食べる気にはならなかったんだけどね。

 

帰路再びモスクワに寄った時は夜だった。ここでこの空港が薄暗かった理由がはっきりわかった。旅行者が移動する特定の順路と免税店以外の明かりがほとんどついていないのだ。真っ暗な空港内を僅かな明かりで示された路をとぼとぼ歩くと、なんともいえない気持ちになった。ヨーロッパの国際ハブ空港なんだぜこれ。免税店では1ポンド=1ルーブルというレートを示す紙が貼ってあった。当時確か英国の1ポンドは1.7ドルくらいの価値があったと思う。ニュースなどではソ連の経済が破綻していて、モスクワの自由市場ではルーブルは紙くず。実質レートはドルに対して桁が違うほどに低下していたと聞いていたのでなんだかボッタクリに思えて何も買わなかった。

搭乗前に荷物チェックされたのだが、このときの担当が007にでも出てきそうな軍服を着た大柄な女性。手荷物に入ってた旅行用ポケットシェーバーを見て

「これはなんだ!?」

「シェーバーです」

「動かしてみろ、いやこっちに向けるな!!

などというやりとりがあって「うわあソ連っぽい」と思ったものだ。

 

そんな経験をして成田に到着。いやあ面白かったなあと思ったのだが、ここでとどめの一撃。英国での搭乗時に預けた荷物が出てこない。他にもそういう人が何人もいて騒ぎになった。空港職員が、荷物がない人に対し調査のためにいろんなバッグ、スーツケースの写真が載ったカードを見せて、「どれに似てますか」などと手続きをしている。中年男性が

「ここにはねーよ!サムソナイトの新型なんだよ!!」

と怒ってる。

「いやあくまでどれに似てるかということですんで」

「どれにも似てねーよ!!サムソナイトの新しいやつだからよ!!!

激昂のあまり「サムソナイト」をやたら連呼するので、なんだか荷物を取り返すよりサムソナイトを自慢したいようになってしまっていた。

 

この件は、モスクワで空港職員が英国からの便の荷物を積み忘れたということであった。翌日には連絡が来て、即日成田から送られてきた。

 

東欧民主化の総決算に見えたベルリンの壁崩壊。それでもソ連はなんといっても超大国であり、衛星国を失ってもソ連のままでいて、ゴルバチョフ路線でゆっくり民主化すると思われてたと思う。でもこのとき「ソ連そうとうやばいな」と思った。保守派のクーデターが失敗し、ソ連が崩壊するのはその翌年である。