海苔を消化できるのは日本人だけというけどあまり意味はない

Nori

 しばらく前に、フランスの研究所が出した論文で、海藻を消化する細菌が日本人の腸内にだけ存在しており、これによって日本人は海藻を消化吸収できるというような話があった。ネット上ではそれなりに話題になったと記憶しているが、そもそも海藻を消化できないという事自体ピンとこないだろう。だって食べ物は普通消化吸収されるものじゃん。

 実際の所、なぜ海藻が消化できないかというと、細胞壁のためだ。植物の細胞は一般に細胞壁という丈夫な壁で覆われている。細胞壁は多糖類であるので、分解できれば動物のエネルギーである単糖になるが、ほとんどの哺乳類はこれを消化する酵素を持たない。細胞を覆う細胞壁が破壊できないと、細胞内部の栄養分も吸収できない。とするとそもそも植物は食べても無駄ということにならないか??

 実際は、食べる時に歯ですりつぶすことで、細胞壁を破砕し、栄養を吸収することが可能なので、植物は重要な栄養源になっている。また、草食動物などでは、消化管内の細菌の力を借り、時間をかけて細胞壁をも消化吸収できるようになっている。

 また、植物の細胞壁が難物なのは、生の状態であればの話である。加熱調理することで、細胞壁は容易に破壊され、消化されるようになる。海藻もまた植物であり、細胞壁を持つが、この「日本人にしかない腸内細菌」の力を借りなくても、煮炊きしたわかめ、昆布、海苔などは普通に消化されている。

 以上のことから、海外論文で言うところの「日本人だけ」の特徴は、海藻を生で丸呑みするような場合でなければあまり生活上の意味はないといえる。あえて言うなら、海藻サラダは低カロリーだと思っていたら、日本人限定で、思いの外消化吸収され太る可能性があったという、ダイエットへの影響が考えられるくらいではないだろうか。

 なお、哺乳類は細胞壁を消化できないけど、貝類などは海藻の細胞壁を消化する酵素を持つものも多い。ウニやアワビはすりつぶす臼歯もなく、長大な消化管も持っていないが、海藻を主な栄養にしてもりもり太る。

レディボーデンとアイスケーキとバタークリームケーキ

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1970年から1980年代頃に発売していた、クリスマス前ぐらいになるとCMをしていたらしいケーキみたいなアイスを知ってる方がいましたら教えてください。

2年前のYahoo知恵袋で、結論が出ていないのだが、これ、多分レディーボーデン
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最初の質問で「ケーキみたいな」と言うので、ピエネッタ等デコレーションしたものを想像するが、補足で「丸いカップアイスっぽいものらしい」と付け足されてるので、これで間違いあるまい。

 レディーボーデンは、日本で高級レストランのような場所で提供されるものではなく、一般に販売されるプレミアムアイスクリームとしてはおそらく最も早い時期の商品だ。1970年代当時、庶民が食べられるアイスは、スーパーや駄菓子屋で売ってる50円程度のカップアイスで、これは乳脂肪分の高い「アイスクリーム」ではなく、「ラクトアイス」だった。レディボーデンは本格的なアイスクリームで、500mlの大きなカップで販売され、価格も高かったので、クリスマス等に一つ買って家族で分けて楽しむ贅沢として販売されていた。まあ、いまでいうハーゲンダッツみたいなものだけど、当時あのようにコクがあるなめらかな「アイスクリーム」はなかなか庶民の口に入らなかったのだ。

 で、この質問の「ケーキみたいな」という部分で思い出したのだけど、クリスマスケーキで一時期「アイスケーキ」というのが流行ったことがある。つまりホールケーキのデコレーションクリームが、アイスクリームでできているものだ。当然冷凍庫必須で、販売時はドライアイスを入れていたと思う。これが流行ったのが、レディーボーデンの流行と関係してるのか、どっちが先なのかも覚えていないのだが。アイスケーキの流行は、多分数年と持たず廃れていったと思う。やはり取扱いが面倒だったのだろう。

 アイスケーキの流行前のクリスマスケーキは、バタークリームケーキだった。バタークリームは、泡立てた卵白とバターを混ぜ合わせたもので、1970年代のデコレーションケーキは、主にこれを使用していた。バタークリームは、生クリームより固く、形を保てるので、バラの花のような精巧なデコレーションができ、保存性も良かったので、使われていたのだ。ただ、主成分がバターであるので、油っこく、二切れも食べると胃がもたれ、吐き気を催す禁断のケーキでもあった。

 多分バタークリームから、アイスケーキへの流行は、そういうものもあったのではないかと思うのだが、アイスケーキは一時の流行で終わったので、その後はまたバタークリームに回帰したんじゃないかなあ。1980年代のバブル前後に、デコレーションケーキはホイップクリームを使うようになっていって、ホテルのケーキバイキングでOLさんがケーキ食べ放題できるようになっていくのだ。もしケーキバイキングがバタークリームケーキだらけだったら、バブル時代のOLさんも吐き気をこらえる悲惨な状況が現出したに違いない。

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シンフォギアGXでマリアと翼が歌ったライブ会場

アニメ、「戦姫絶唱シンフォギアGX」1話で、風鳴翼とマリア・カデンツィナ・イヴがライブコンサートを歌った場所はどこだろうとふと思った。

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スクリーンが開いた向こうに、タワーブリッジが見える。日本時間で深夜。ロンドンでは夕方なので、太陽が沈むタワーブリッジが見えるということは、タワーブリッジの東から撮影しているということになる。なお、この背景の橋を「ロンドン橋」と記述している放送当時のブログが数多く存在するが、あれはロンドン橋ではなくタワーブリッジである。ロンドン橋は、「ロンドン橋落ちた」の歌でやけに印象に残ってるが、実際は鉄筋コンクリートの非常にシンプルな橋で、タワーブリッジの西に存在する。
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つまり、あのコンサート会場は、ロンドン橋の反対方向。タワーブリッジに近いテムズ川中心に存在したはず。たぶんこのへん。
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ここにコンサート会場が存在したわけだ。
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テムズ川水面ぎりぎりのコンサートステージ。テムズ川も普通の川なので、水位が季節や気象で変わるはずなので、そんなものが作れるのかというのは謎なんだけど。まあそれはさておき、コンサート終了後、オートスコアラーの襲撃をうけたマリアと翼は、車で脱出。その後ビッグベンが見える橋の上で戦闘になる。

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この視点はわかりやすい。ビッグベン手前のウェストミンスター橋である。
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最終的に、このときマリアと翼が移動した経路はだいたいこんな感じになる
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MacPaintとPICTフォーマット

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 初代Macintoshに同梱されたMacPaintは、その後のビットマップペイントソフトの共通祖先となったと言っていい、偉大な影響力を誇った。左にツールパレットを配置し、中央にドキュメントウィンドウ。ツールパレットをクリックすれば鉛筆やブラシ、塗りつぶしバケツが切り換えられる。このあたり前のフォーマットを作ったのがこのソフトだ。これ以前のものは、例えばろくなパレットがなく、キーボードの特定のキーでツールを切り替えるなど、直感的とはいえない操作性のものが多かったのだ。ただ、初期MacPaintは、メインウインドウは一つだけで、動かすこともできない、ただの背景みたいな動作だっだりして、メモリが128KBしかなかった当時の妥協の産物でもあったりする。スクロールバーもなく、ハンドツールでスクロールする。画像も576×720ピクセルモノクロ固定だったりする。

 このMacPaintが作成する画像ファイルは、MacPaint形式と呼ばれる。構造としては、

  • 4バイトのバージョン
  • 8*38バイトの塗りつぶしパターン
  • 202バイト空き(将来の拡張用)

 という512バイトのヘッダーがあり、その後に圧縮したビットマップが並ぶ。塗りつぶしパターンは、画像の表示には必要ない。MacPaintの画面下部に並ぶパターンパレットに入れるためのもので、8バイトで一つのパターンが定義され(8×8ドットモノクロ)、それが38個並んでいる。なお、バージョン番号が0であれば、デフォルトパターンを使用することになっていたので、カスタムパターンが不要ならヘッダー512バイトを0で埋めればよい。
 画像本体は、1ライン576ピクセル=72バイトずつPackBits圧縮されてこれが720ライン分書き込まれている。PackBitsは、シンプルなランレングス圧縮の形式で、同じデータ(バイト単位)が続かない部分はバイト数をマイナスにして生データを並べている。バイト数は8ビットなのでsignedにすると127バイト以下しか扱えないが、MacPaint形式画像の1ラインは72バイト固定なので問題なく使える。このPackBits圧縮/展開ルーチンはQuickDraw APIに含まれていたので、これを呼び出すだけでよかった。

 MacPaintのインパクトは大きかったので、初期Macintoshにおいて、この形式は標準画像ファイルフォーマットに近い扱いだった。実装も簡単だったし。しかし、あまりにシンプルで固定化されたフォーマットのため、応用が効かず、数年で廃れていく。モノクロで画像サイズ固定だもんなあ。AppleがMacPaintの同梱をやめてしまったのも痛かった。

 さて、MacPaintと同様、MacDrawというソフトが初代Macには同梱されていた。
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 こちらはベクター形式のツールで、保存形式はPICTファイル。これはMacの画面描画命令をそのまま記録したものだ。まずOpenPictureという命令を実行し、その後画面に好きなように描画する。最後にClosePictureという命令を実行すると、OpenPicture以降に実行された描画命令が記録されたメモリブロックが確定する。これをPictHandleというが、DrawPicture命令にこのPictHandleを渡せばいつでも記録した描画を再生してくれる。なお、ベクター系の命令ばかりではなく、ビットマップ転送命令も記録できるため、あらかじめウィンドウに描かれたビットマップがあったとして、OpenPictureしてすでにあるビットマップを自分自身に転送してClosePictureすれば、ビットマップそのものを記録可能だ。したがって、描画に時間がかかる複雑な画像や、MacPaint形式の画像を読み込んだものを、「自分自身に転送」して、PICT形式に変換できた。

 つまりPICT形式ならベクターもラスターも両方扱えたのだ。また、描画命令を記録するという性質上、OSのアップデートで新たな描画命令が追加されても、プログラムの変更なくそのまま使用可能な場面が多かった。実際、最初はPackBitsしかなかったビットマップ圧縮アルゴリズムも、QuickTimeの追加によって、JPEG他様々なコーデックが使用可能になっていった。

 なお、PICTデータはOS内部で自在に使われていたが、MacDrawが作ったファイル形式は、MacPaintと同様、ファイル先頭に512バイトのヘッダがあり、その後にPictHandleの中身を書き出したものだったため、これを読みこんで画面に表示するためには、頭512バイトをスキップする必要があったし、後のMacDraw以外のアプリケーションがPICTファイルを書き出す際は冒頭512バイトを0で埋めるのが基本になった。PICTデータとか、PICTハンドルというときは、頭からPICTの命令セットが入っているものだが、PICTファイルというと512バイトのヘッダがついているものになるので、若干注意が必要だ。

 PICT形式は大変便利だったため、Mac上で完全に画像ファイルの標準形式になっていった。しかし、その描画は変化していくMacOSに依存し、規格で範囲が定まるものではなかったため、他機種で再現するのは難しく、機種を超えて広く使われる形式にはならなかった。JPEG圧縮したPICTファイルなんてものは、他機種で見ることができない。だったら最初からJFIF形式にしたほうがいいだろう。やがて、MacOSがNeXT由来のOSXになって、Classic系のAPIが徐々にフェードアウトしていき、Mac上でも使う人がいなくなっていく。

 MacPaintやMacDrawが登場したのは1984年。まだJPEGもGIFもTIFFも存在していなかった。業界共通の画像フォーマットがなかった時代だから、Appleは画像フォーマットも作成せざるを得なかったのだ。


 なお、WindowsにはWMFという、MacのPICTみたいにGDIの命令を並べたファイル形式があるのだが、発表が1990年代に入ってからで、すでにその他の画像フォーマットが広く使われていたためが、さっぱり普及しなかった。

旧ソ連の宇宙技術すごい&戦時中の東芝やばい

最近「小説家になろう」に投稿されたエッセイが非常に面白かった。
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NASAの宇宙飛行士、ジム・ラヴェルがもう宇宙いくたびトラブルでうんこやゲロにまみれてなんとかしろといい続けてたとき、ソ連は座席に真空吸引トイレを備え、水分のリサイクルシステムも構築していたという爆笑ものの話から、SDI計画に対抗したソ連がエネルギアロケットで打ち上げた馬鹿でかいレーザー衛星が、実は歴史上最強の100メガトン水爆「ツァーリボンバ」を搭載してどこにでも投下できるシステムを作っていたとか、西側で常識とされた大気圏再突入の困難をぴょんぴょんジャンプで解決してたとか、実質現在アメリカのロケットエンジン旧ソ連開発のものしか使えてないとか、NASA史観で育った僕らには非常に面白い話だらけ。

この人がもう一つあげてるエッセイが
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戦前米GEが出資した東芝が、戦争中もずっとGEの先端技術を輸入し、帝国の特許出願しまくっていた話。日米開戦後、1944年までどうやって連絡取ってたのかはいまだに謎という。東芝東芝で、律儀にGEにライセンス料を振り込み続けていた。さすがにそのお金は国内で止められていたが。銀行にプールされていて、戦後回収できたとか。戦後軍事と工業を解体して日本を農業国にしようとしたGHQに、GEが「投資が無駄になる」と大反対。あの手この手で東芝の解体を阻止し、戦後日本の基礎を作ったという。これも非常に面白い。

小説家になろうって、異世界転移チートでハーレムとか、悪役令嬢大逆転だけじゃないんだなあと思わせてくれる作品だ。おすすめ。

「リベラル」という語が差別語に近づいている

 かつてリベラルといえば、理想主義的だがマルクス主義のようなギチギチの理論に縛られず、現実的な政治思想を指していたはず。なので知識人がリベラルであると表明するのはむしろ当然だった。しかしいま「リベラル」という言葉は、「反日左翼」「与党の方針に常に反対しかしないものを考えない連中」みたいなイメージで語られることが多く、リベラルであると自称する事自体ためらわれる時代になっていると感じる。

 「リベラル」がそもそも「リベラリズム」=「自由主義」なのだが、これは本来啓蒙思想から起こった考えで、権力が人民を支配する原理は神によるのではなく、社会契約に基づくということ、そこから平等思想が生まれ、人間の自由がうたわれた。この自由はすなわち権力からの自由であり、権力が個人の自由を侵すことを忌避する。個人の自由を最大限に尊重することから、この考えは国家を小さくして、極力民間の自由に任せる方向に向かう。このへんは古典的自由主義と呼ばれる。

 ただ、際限ない自由に任せると、貧富の差が広がり、むしろ自由が抑制される人々が多くなるおそれがある。その為、近代的な自由主義累進課税や過当競争の抑制、国家による補助などを行って、自分と他人の自由をバランスしながら尊重しようという方向に進んだ。この方向ではどちらかというと「大きな政府」が要求され、社会民主主義的な思想に近づく。

 この近代自由主義は、大きな政府による社会的なコストが増大するので、またここで規制緩和と公共事業の民間移譲で小さな政府を目指す新自由主義リバタリアニズムという動きが出てくる。小泉政権以降の自民党はどちらかというと新自由主義だ。で、一般に「リベラル」と呼ばれるのは新自由主義ではなく、近代自由主義の方だ。


togetter.com
www.sankei.com

 どうも日本のリベラルは特殊だとか、ソーシャルと言ったほうが良いみたいな話が最近ちょろちょろ出てるけど、近代自由主義は上で言ったように社会民主主義的な要素を含んでいるもので、これはイギリスの労働党もアメリカの民主党も程度の差こそあれ変わらない。憲法9条があるのは確かに日本の特殊事情だけど、リベラル勢力が反戦平和主義を謳うのもわりかし日本に限ったことではないと思う。

 上記Togetterのまとめで、コメント欄で複数の人がリベラルを「ファシスト」呼ばわりしているが、これを言う人の頭の中のリベラルとは、ナチスであり、ソビエト共産党であり、クメール・ルージュみたいなものなのだろうな。そりゃそんなリベラルは願い下げだが、問題はリベラルと名乗る勢力すべてそのようにみなされるということだ。これは広い集団を勝手に極端な統一意志にまとめて叩いている点で、民族差別などのヘイトクライムに非常に近い。

 結局「リベラル」という語の印象が非常に低下し、民進党はリベラルを切り捨てて分裂した。「リベラルでは選挙に勝てない」と前原代表が判断したのだろう。

 このように「リベラル」の主張自体が非難の対象になっていく現状、これは自由が徐々に失われているのではないかと思う。

エミュレーション型レトロゲーム/パソコン互換機

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 任天堂クラシックミニ シリーズみたいに、懐かしいコモドール64をミニサイズで再現したもの。やはりゲームソフトをあらかじめ内蔵して、基本的にはそれを遊ぶようにできている模様(名前に因んでか、64種類のゲームが内蔵されている)。

 このTHE C64 MINI のハードウェア構成は今のところ公開されていないが、おそらく任天堂クラシックと同様、ARMアーキテクチャのSoCでLinuxカーネルを走らせ、その上でコモドール64エミュレーターを動かす形式だろう。

 以前ディスカウントショップやオークションで流れていた中国製ファミコン互換機は、CPUとPPUを1チップ化して小型化してはいても、基本ファミコンの回路を互換性を持つ形で再現していた。2006年に発売された1チップMSXの場合、FPGAMSX互換ハードウェアを組んでいた。この時代にもパソコン上でファミコンMSXを実用的な速度でエミュレートすることは可能だったが、パソコンとなると高価で大きく、余計な機能が多い。また、組み込み向けのSoCの価格性能比もまだこなれておらず、中国で大量に製造されたらしきファミコン用チップや、FPGAでの再現のほうがお得だったのだろう。

 2012年に登場した、Raspberry Piが、エミュレーションの時代を開いたのではないだろうか。数千円程度で、小さな基板上に十分な速度とメモリを持つCPU、USB、HDMIを持ち、そのままデスクトップLinuxが動作する。Raspberry Piレトロゲーム機にするRetroPieというプロダクトも登場している。
retropie.org.uk

 2014年には、Retron5が登場。5種類のゲーム機のカートリッジを刺して遊べるマルチゲームマシンだが、これはカートリッジを刺すと、ROMデータを内蔵ストレージにコピーして、それを遊ぶという形になっている。カートリッジを刺してすぐさま遊べる昔のゲーム機とはちょっと趣が違うのだ。その後出たレトロフリークも同様である。

 これらのマルチゲーム機はソフトウェアエミュレーションで動いているため、カートリッジのROMをそのままエミュレートされたゲーム機のメモリにマッピングできない。工夫次第ではできるだろうが、リアルタイムでカートリッジ上のROMにアクセスする場合エミュレーターのヒープ上のRAMに比べてとてつもなく遅くなるだろう。そもそもゲームカートリッジは80年代の遅いCPU、遅いバスで動くように設計されている。また、パソコン用に書かれたエミュレーターはROMを直に読むようにできていない。普通はROMを吸い出したファイルシステム上のROMファイルをメモリに読み込んでから実行される。要するに、この種のマルチゲーム機は、ROM吸出し機+ゲームエミュレーターという構成になっていると思われる。

 そこで、任天堂クラシックシリーズが取った方法は、筐体をカートリッジが入らないミニサイズにして、ゲームは製造時にあらかじめ基板上のメモリにファイルとして格納しておくという方やり方だ。この方法ならカートリッジスロットに何十本もの線を接続する必要もなくなり、より製造工程も単純化でき、コストも下げられる。 THE C64 MINIも任天堂のやり方を真似たのだろう。

 さて、MSXも今の時代なら同じ方法で1チップMSXより安価に製造できるだろうが、やはりカートリッジによるハードウェアの拡張なども多かったことを考えると、任天堂方式でカートリッジ機能を殺したり、Retron5方式のROM吸い出しで済ませるのはよろしくない。カートリッジがエミュレーター上でしっかりZ80にバスを通してつながってるような形のエミュレーターを作成できればいいのだけど、どうだろうか。