衆議院選挙神奈川14区の大雑把なこれまで

 まもなく選挙だが、僕の住んでる神奈川14区はどういうところか。

 もともとは藤井裕久の地盤だった。藤井は大蔵官僚出身で、自民党から参議院議員になり、その後衆議院に転じる。自民党新生党新進党自由党民主党という、まあ小沢一郎の盟友だったどちらかというと保守派の人。この人が引退する時、自分の秘書だった本村賢太郎に地盤を引き継ぐ。本村も初当選時は自由党であり、その後民主党民進党所属である。

 この藤井裕久に対する対抗馬として自民党から立候補したのが赤間二郎赤間と本村がデッドヒートを繰り広げている。最近二回の選挙では公明党の支持を得た赤間がぶっちぎりで、本村は一度は完全に落選、一度は比例復活で議員になっているという状態。


 さて、今回の選挙に際して、民進党は事実上分裂して主流は小池百合子希望の党の公認を受けることになった。本村賢太郎はその出自からわかるように旧自由党系の保守派グループに属しているため、当然のように希望の党の公認を受けることになった。まあ、保守系でも小池百合子のイメージ戦略上、もし民主党政権時代などに顔が売れる党の重役的なポジションにいたら公認されなかった可能性が高いので、この人が全国的には無名のどうでもいい議員であったことが本村には幸いしたと言えよう。
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 幸いしたと書いたが、実際に幸いなのかどうかは蓋を開けてみなければわからない。小池百合子のあの言を左右にして自分の意見を隠しながら周囲を巻き込んで突き進む雰囲気が、徐々に嫌気されはじめている状況。一種のカリスマなのに本人は出馬しないことで選挙の神輿が徹底的に不足している状況から、思ったほど勝てない可能性はあると思う。そして、前回名簿順に救われた本村賢太郎が、後から参加した希望の党で有利な順番で比例名簿に載せてもらえるだろうかということを考えると、結構本村には厳しいのではないか?

 だからといって小沢自由党に近かった本村が、枝野幸男立憲民主党に参加するという選択肢は取れなかっただろうし、党勢を考えると「落ち目のリベラルよりイケイケの保守」に乗っかったほうが票が取れるというのは間違ってはいないだろう。

 本村賢太郎としては、森友や加計問題で自民党の支持がおもったより落ちて、赤間二郎に流れていた保守票が、民主党民進党に染み付いたリベラルイメージを払拭し、保守政党であることを明確にした希望の党の公認を受けた自分に来てくれることをみこんでいるのだと思う。政策的には同じようなものだから、むしろ選挙区で赤間に勝利できると思っているかもしれない。

 実際どうなるのか、結構ワクワクもので見守りたいのだが、僕自身の投票については非常に悩ましい。僕はいつも言ってるようにどっちかというとリベラルなのだ。なので一応リベラルとみなされていた民主党には毎回ではないが、それなりに投票していた。しかし今回希望の党に擦り寄った本村には投票する気がしない。では立憲民主党かという話になるのだが、立憲民主党は人数勢力的に全国に候補を立てるのは難しい。現在のところおそらく神奈川14区には候補を立てず。野党協力の共産党社民党の候補が出ることになるのではないかと思われる。なので立憲民主党を支持する有権者としては、これらの候補が立った場合、この野党共闘に協力するために、共産、社民候補に投票するのがベターということになる。しかし僕は共産党はなんというか、その、嫌いなのだ。もう前衛政党規定も削除されてるらしいのだが、やはりあの党は信頼できないという気がする。せめて党名を変えて、民主集中制の破棄くらいはしてもらわないと。

 というわけで、もし神奈川14区で共産党候補が立った場合とても困る。どうしようかなあ。

セブンイレブンCM集が懐かしい。

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 1978年から1994年までのセブンイレブンTVCMをまとめた動画。日本のコンビニというものが、変わらないようで変わっているのがわかる。
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1970年代末のレジ風景。なんともいえないハッピのような制服。あとポリのコンビニ袋がなく紙袋を使っていた。

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同じ頃の店内、ドリンクコーナー。缶飲料がほとんどで、500ml「ホームサイズ」のガラス瓶が下の方にある。

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1980年代半ばになると、スクリューキャップのガラス瓶、いわゆる「だるまボトル」が流行。ドリンクコーナーの主流になる。現在主流の小型PETボトルはこのころまだ登場していない。

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この画面がいつのCMかはっきりしないが、服装を見るとバブルの頃かなあ。コンビニ袋の登場は多分もう少し前、1980年代前半の何処かだと思う。

 個人的に懐かしかったのは斎藤裕子が出演した一連のCM。
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「今日は飛びませんねえ」が流行語になったハンバーガ

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ブリトー」という低音のジングルが印象に残った、ブリトー初登場時のCMなど。

 実際人気で、この当時セブンイレブンのCMといえば斎藤裕子という位出まくっていた。

スタートレック映画で、日本ではスタートレックであることを隠して宣伝していたものがある。

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スタートレック・ファーストコンタクト
 この映画、公開当時執拗に「スタートレック」の名前を言わなかった。ハリウッドの新作SF映画「ファーストコンタクト」として扱われていた。CMにはエンタープライズ号が写ってるので、知ってる人はわかるのだが、なぜ「スタートレック」を隠すのか、当時すごく不思議に思ったものだ。

 「スタートレック」は言わずと知れた超有名SFシリーズだ。日本でも「宇宙大作戦」としてTV放映され、それなりに知名度もあった。その後スターウォーズによってSF映画ブームが起き、1982年、「スタートレックII カーンの逆襲」、1984年、「スタートレックIII ミスター・スポックを探せ」が公開される。これは当時のILM渾身のCGで作られたジェネシスシーケンスなどが特撮マニアに話題になった。だけどこの時すでに、スタートレックを多くの日本人は忘却していた。マニアの支持はあったものの、洋画として配給する側の期待を上回る収益は出なかったのではないだろうか。
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カーンの逆襲の段階で、TVのスタートレックシリーズの設定を知っていることが前提の映画だったので、知識のない初見の客にうけなかったとみなされた可能性が高い。その後1996年に新TVシリーズの設定で「ファーストコンタクト」が制作された時、過去の失敗から、「スタートレック」というシリーズ名を隠し、過去のしがらみのない、独立新作として売ろうとしたのだろう。しかしこれは悪手である。「余計な知識はいりませんよ」と言われて見に行ってみればそれはカーンの頃よりさらに歴史を積み重ねたスタートレック世界であり、前提なしではやはり完全に楽しめなかったろう。ボーグもバルカン人も知らずにあの作品をどれだけ楽しめるだろうか。

 これは、客を騙して劇場に入れてしまえば金は取れるという、一時しのぎの商売だと思う。これで裏切られた客は次はこなくなる。こういうの、この後もちょくちょく見かける。2013年に公開されたゾンビ映画ワールド・ウォーZ」を、ゾンビ映画であることを隠して、戦う父親の家族への愛で押し通したCMを流していた。TVCMではゾンビのゾの字もなかった。「Z」はあったけどな。

 肝心なことを隠して金をだまし取るのは詐欺だと思います。

デイリークイーンのわんぱくデニスと、日世コーンのイメージキャラは似てる

 日本におけるソフトクリームのコーン。これは日世という会社が多分昔からかなりのシェアを持っている。というか、日本ではじめて「ソフトクリーム」というものを売り出した企業だ。ソフトクリーム販売店の店頭などに日世のイメージキャラが描かれていることは多い。公式サイトを見てもこのキャラクターの名前などはわからないのだが、オーバーオールで金髪の少年と少女が描かれている。
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特に少年の方、73分けでそばかす。これどっかで見たような気がする。
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アメリカのソフトクリームファストフード店、デイリークイーンが採用していた「わんぱくデニス」だ。

 「わんぱくデニス」は、もともと新聞漫画で、後にアニメや実写映画にもなっている作品だが、1970年代から2002年までデイリークイーンがイメージキャラクターに採用していた。現在は撤退しているが、このデイリークイーンは、日本でも以前展開していた。僕の記憶では、1990年代に西川口に店舗が残っていたと思う。ソフトクリームが一番の売りだが、ハンバーガーや、オニオンリングも販売していて、普通のハンバーガー屋さんという雰囲気だったと記憶している。ぶっちゃけ玉ねぎにパン粉つけて油で揚げたオニオンリングはすげえ美味しかったので、またどっかで販売しないかなあと思ったり。

 で、だ。日世が日本ではじめてソフトクリームを販売したのは1951年で、デイリークイーンが「わんぱくデニス」と契約した1971年より古い。しかし、日世コーンの金髪73分けオーバーオールなキャラが使われだした時期が公式サイトの沿革からもわからない。なので日世がアメリカの大手ソフトクリーム屋であるデイリークイーンのわんぱくデニスをパクったかどうか判断できない。

 実際の所、1950年代から1970年代に、企業のキャラクターってなんか73分けの「坊や」が流行った時期がある。信用金庫の信ちゃん
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ナショナル(現パナソニック)のナショナル坊や
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ヤンマーのヤン坊マー坊
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といったイメージキャラがみな似た雰囲気の73分け少年だった。だから、その時代の雰囲気としてああいうキャラクターが自然に創出されたのかもしれない。
ただ、ナショナル、信金、ヤンマーはみんな黒髪なのに、日世は金髪なんだよな。

あ、いま急に思ったのだが、トランプ大統領、わんぱくデニスの髪型をパクってないか?

iOSのQRコード対応など

 iOS11の新機能として、標準のカメラアプリでQRコードのスキャンが可能になったというものがある。QRコードは、もともとデンソーが1994年に開発した二次元バーコードだ。2000年頃には、日本において非常に普及し、iPhoneが登場した2007年頃には、カメラ機能を持つ日本の携帯電話は軒並み対応していた。しかし、これは日本以外ではあまり普及しておらず、当然iPhoneにも搭載されなかった。サードパーティ製のアプリをダウンロードしなければいけなかった。

 iPhone登場の時代のいわゆる日本のガラケーは、そうとう世界の先端を行っていた。QRコード、お財布ケータイ、ワンセグチューナーといった機能は、登場当時のiPhoneには全く搭載されておらず、これらを使いたいユーザーからしたら、iPhoneはいくつかの当たり前と思われた機能が退化し、失われた携帯電話になってしまった。

 しかし、圧倒的な使いやすさでiPhoneにはじまる全面タッチパネルスマホがたちまち主流になっていく。同様のタッチパネル型スマホであるAndroidの方は端末メーカーがハード、ソフトともに手をいれることが可能なので、日本メーカーはAndroidベースで、ガラケーで搭載していた各種機能を追加したりしていたが、どういうわけか日本ではiPhoneのシェアが60~70%と大きな割合を占め、日本の携帯メーカーは苦しい戦いを余儀なくされることになる。

 Appleは言うまでもなくアメリカの会社だ。そして日本ローカルな規格には非常に冷淡である。おサイフケータイとほぼ同様の使い勝手のApplePayを導入したとき、最初日本で主流のFelicaを無視して、欧米のTypeA/Bという短距離通信決済技術を採用した。(その後iPhone7でFelica使用のSUICAに対応)。あの時も日本では「いまさらだよなあ」という声があったはずだ。

 今回QRコードに対応したのは、おそらく中国でのQRコード決済の流行に乗っかったものだろう。QRコードは20世紀に登場して、あれだけ日本で使われても、中国が利用を始めるまで、Appleにとっては全く目に入らない路傍の石だったのだ。まあ欧米全体に匹敵する中国市場だもん。無視できないよなあ。

 モバイル回線が今と比べ物にならないほど遅かった時代にインターネットとのゲートウェイを作ったNTTドコモiモードも、海外進出に失敗して日本独自規格に収まっていた。上で上げたものもみんなそう。どれだけ優れた技術も、世界で受け入れられなければグローバル社会で受け入れられず、あとから車輪の再発明や、中国のような別市場の盛り上がりでの再評価しかされない。使えないよりは使えたほうがいいけれと、今回の「いまさらの」QRコード採用は、日本の技術の敗北に等しいと思う。

UNIX紛争史

 UNIXというOSは、なんだかんだいって随分長い間現役で使われ続けている。現在UNIX系OSとしてはLinuxが主流だが、これは正確にはUNIX風に一から作られたOSであって、UNIXではないのだが、ここではUNIXの歴史に混ぜておく。

 そもそもUNIXが登場したきっかけは、1964年頃のMulticsというOSの開発プロジェクトだ。MITを中心に、AT&Tベル研究所とGEが参加して、メインフレーム用の高機能なOSを開発していた。このプロジェクトから、AT&Tは撤退する。ベル研究所所属の、ケン・トンプソンやデニス・リッチーらは、複雑で大規模になったMulticsの反省から、シンプルで使いやすいOSの開発に取り掛かる。社内に放置されていたミニコンピューターのPDP-7上で初期のOS開発が行われ、やがて使いやすいと評判になって他のマシンでも動かせないかと相談される。ここで機種ごとに異なるマシン語を使うことをやめ、マシン語に近い低レベルの記述もできて、かつ当時先端の構造化言語の特徴を備えたC言語デニス・リッチーが開発する。Multicsに対抗してUNIXと名付けられたこのOSは、C言語によって様々な機種に移植可能になった。

 ベル研究所が所属するAT&Tは、日本で言えばNTTみたいなもので、全米の電話網を支配する巨大企業だった。なので独禁法の縛りを受け、電信電話以外の商売を禁止されていた。また、UNIXベル研究所所属の研究者たちの個人的な活動であり、会社のプロジェクトではなかった。こういう事情で、初期のUNIXはメディア代程度の負担でソースコード付きで配布された。これが初期のハッカー文化を形成する。OSやアプリケーションはソースコード付きで実質無償で配布され、誰もが自分の用途に応じて改造できた。こういう経路でコードを受け取った大学や研究機関の中でも、有名なのがカリフォルニア大学バークレイ校である。

 1980年ころDECがこれまでのミニコンと性能が段違いのVAX-11を発売する。これは32ビット仮想記憶に対応した「スーパーミニコンピューター」だった。AT&TはVAX-11にUNIXを移植するが、仮想記憶に非対応なままだった。カリフォルニア大学バークレー校は、UNIXのソースを改造して、仮想記憶対応UNIXを発表する。これが、バークレー、ソフトウエア、ディストリビューション。略してBSDの始まりである。本家よりあきらかに優れた改造版が登場した。その後、ARPANETプロジェクトなどもBSDに受注され、インターネットのパケット交換システムもBSDのそれがデファクトスタンダードになっていく。

 このころ、AT&Tは結局地域ごとの電話会社に分割されることになり、そのかわりコンピューター業界へ進出できるようになる。当然すでに人気が出ていたUNIXから利益を得ようとする。UNIX利用企業からそれなりのライセンス料を徴収する事自体は正常な活動だが、それによって「ソースコードをだれても改造して再配布する」というハッカー文化は終わりを告げる。この状況に憤慨したリチャード・ストールマンは、UNIXのような環境を自由に扱えるものを作ろうと、1983年、GNUプロジェクトを立ち上げる。GNUは、「GNU's Not UNIX」(GNUははUNIXではない)という文の頭文字である。

 カリフォルニア大学は、大学なのでその段階でもAT&Tからソースコードの提供をうけられた。BSDUNIXの改造版である。なので、BSDは、AT&T著作権を侵害せずに配布を続ける方法を模索する。AT&Tのソースに追加する部分だけを無償配布し、OSとして動かしたければAT&Tのライセンスを購入して、オリジナルソースを購入した上で、BSDのパッチを当てるようにしていた。そんなめんどくさい状況でも、1980年代を通して、技術者ならBSDと言われるBSD優位の状況が続くことになる。

 ただ、パッチを当てたソースが本当にAT&Tのライセンスを破ってないのかというのは難しい問題であり、また利用者がAT&TBSDの両方のライセンスを取得しなければいけない不便もあった。バークレー校は、配布コードから徹底的にAT&Tのコードを削除して、独自開発したコードに置き換えていき、やがてほぼオリジナルコードからなるほぼ完全なOSを作り上げる。これが1991年のNetworking Release 2(Net/2)である。これがリリースされたことをもって、個人が使うパソコン上でUNIXを使う環境が整い、当時普及し始めたIntel 80386 CPU搭載パソコン用UNIXの開発が各所で始まる。ウィリアム・ジョリッツがオープンソースとして386BSDを開発し、バークレー、ソフトウェアデザイン社(BSDi)がBSD/386という商用プロダクトを販売し始める。この時期386BSDからNetBSDFreeBSDが産まれる。

1992年。BSDiに対して、AT&T著作権侵害の訴訟を起こす。BSD/386が基にしたNet/2がUNIXのコードを盗用してるというもの。企業であるBSDiに対して起こされた訴訟だが、同じBSD Net/2をベースにしていたFreeBSDNetBSDも影響を受け、この訴訟期間、配布が停止する。この時期に北欧フィンランドの学生。リーナス・トーバルスが、この訴訟とほぼ無関係にUNIXっぽいLinuxというOSを作りはじめる。

 BSD訴訟は、2年間UNIXの発展を妨げ、Linux勃興のチャンスを与えて終わる。この裁判の結末は和解条件が複雑にからんで実態は不明だが、BSDのコードにAT&Tの盗用もあったけど、逆にBSD開発のコードがより多くAT&Tのコードにも混じってたという、どっちかというとBSDの勝ちみたいな感じだったらしい。

 この裁判を受けて、カリフォルニア大学バークレー校は、「本当にAT&T由来のコードを全部抜いた代わりに、それだけじゃOSとして機能しない」BSD4.4-Liteと、AT&T由来と判定されたコードも含むものを2つリリースすることになる。FreeBSDNetBSDは当然、Liteの方をベースに不足してる部分を新たに書いて再構成される。


 この動きとは別に、1980年代なかばから、UNIX戦争と呼ばれる紛争があった。もともと1970年代に商売にならないから配布しまくったUNIX、様々な会社で改造されまくって使われていたが、ヨーロッパ系の会社が標準化委員会を1984年に立ち上げる。X/Openである。これを見たAT&Tは、ちょうどワークステーション市場を開拓していたSUNと組んで、UNIX System V Release 4を発表。

 ところが、UNIXの元祖であるAT&Tと、当時ブイブイいわせてたSUNが組んだことで危機感を生じたDECやIBMといったメーカーが、Open Software Foundation(OSF)を結成してこれに対抗する。AT&T/SUNグループも他の会社を巻き込んで UNIX International(UI)を結成する。

 OSFグループは、当時の「これからのOSはマイクロカーネル」というムーブメントを反映し、Mach マイクロカーネルをベースにしたOSF/1というUNIX互換OSを作っていたが、この流れはなんかあんまし続かなかった。

 最終的に、このUNIX戦争は、X/OpenとOSFとUIがだいたい合併して、どーでもよくなる。この過程で、UNIX著作権はノベルに渡り、一部の権利がSCOに移動する。

 カルデラがSCOを買収、カルデラが社名をSCOと変更。2003年、SCOはLinuxUNIXの権利を侵害しているとして訴訟を起こす。UNIX業界のゴタゴタは食傷気味で、いままでさんざん訴訟と和解を繰り返していたのに、いまさらまたやるのかとみんなうんざりするが、これがすげえ大型訴訟に発展していく。SCOは世界中の大企業を相手取って巨額の訴訟を起こし続けた。

 この裁判の特徴は、何一つ証拠が出てこなかったところだ。SCO側が「LinuxUNIXのコードを盗用してる、何万も」と言うだけでなかなかコードが出てこない。やっと出てきたらBSD訴訟当時にBSD著作権が認められた部分だったり、それ以上になにもない、ただのコードの羅列で侵害の事実がなかったり、ほんとに何も出てこなかったのに、ダラダラ続いたのだ。それでも7年くらい裁判は続き、最終的に「そもそもSCOはノベルからUNIXの権利もらってないよ」という結論になってマジでグダグダなことになった。


 40年以上も現役で使われているUNIXというOS。ほんとうに様々な戦争、紛争があったのである。今後こういうことがないといいなあ。

LEDと液晶とプラズマとFEDとSEDと有機ELと

 新型iPhone有機El採用というニュースが流れてるが、有機EL採用のスマホというならサムスンとかがかなり前から出してるのでさほどニュースバリューはなかったりする。それはさておき、表示装置の歴史も結構いろいろあったなあと思うのだ。

 その昔、デジタル表示の腕時計や電卓が登場した際使用されていたのは7セグメントLEDだった。「日」みたいな形の、縦横の棒を7本並べたものだ。「日」のどの棒を光らせるかで0から9を表現していた。ただ、LEDを光らせるためにはそれなりに電気を食うので、小さなバッテリーしか搭載できない腕時計などでは、リューズのところのボタンを押したときだけLEDが光って時間が表示されるような省エネの工夫がなされていた。もっと電池が長持ちするデバイスを必要とした業界は、液晶に目をつける。これは液体と結晶の中間みたいな物質で、流動体であり、電圧をかけると結晶が並んで光を遮るので不透明になる。これを薄いガラスの間に「日」の棒一本一本の形に整形、流し込んで使用した。液晶は光らない分電気を食わないので、表示しっぱなしでも腕時計が実用的に使えた。ただし、透明が不透明(実際には黒っぽい色に)なるだけなので、夜間はやはり見えなくなってしまう。なので液晶の裏に明かりを入れて、ボタンを押してる間光るようにした。液晶は光らないため暗いところでは見えない。しかし、明るい日中は日光の反射でよく見えた。

 さて、液晶は、そもそも液状な物質中の結晶が動くという仕組みなので、電圧をかけてから表示されるまで、また、電圧を消してから表示が消えるまで微妙な時間がかかった。「カチッカチッ」ではなく「もやっ、もやっ」と表示されていたのだ。1970年代の時計や電卓の表示には使えても、高精細で高速表示を求められるテレビやパソコン用のモニターにはなかなか向かなかった。「日」ではなく、細かいマスを並べたドットマトリクス液晶が登場して、任意の図形を描けるようになっても、動画を表示すると残像だらけでもやーっと動いてしまうため、実用出来ではなかったのだ。

 この問題は、縦横のマトリックスを順番に電圧かけるSTN方式では解決できず、画素ごとにトランジスタを配置して、高速でON/OFFを切り替えるTFT方式が登場することで解決するが、それだと電力を食うし、そもそもバックライトがないとTVやパソコンにはきついので、その分も電気を食う。なので、初期のノートパソコンでは、東芝のようにプラズマディスプレイを使用するものもあった。STN液晶ではテキストのスクロールすら耐え難い残像を引いた表示の遅さがあった。

 高速表示が可能なプラズマディスプレイは、画素単位で、放電を起こし、蛍光体を発光させる方式だ。これはブラウン管よりずっと薄いが、放電部と蛍光塗料を塗った表示部を薄いガラスで挟んで間に希ガスを封入するなどの複雑な構造になっている。1986年に、「ダイナブック」の名を冠して発売されたノートパソコン、J-3100B11/B12は、オレンジ色に発行するプラズマディスプレイを搭載していた。本格的な高解像度ノートPCの元祖的存在で、話題になり、PC-98互換でなくてもこれなら使えると結構売れた。ただし、この商品が売られたのはバブル時代であり、下位機種ですら498000円という値段だった。

 ダイナブックのプラズマは、いわばパソコンマニア向けモノクロ表示装置だが、TVでの薄型ディスプレイとしては、NHKが開発し、やがてパナソニック等が売り出すハイビジョンカラーテレビがあった。これらは、1990年代後半、40インチ以上の大型テレビで、100万円前後で売られ、金持ちが購入して、NHKのついに実験放送で終わったアナログハイビジョン衛星放送を見るためだけに売られていたのだ。なんというか贅沢な時代である。

 この時代、液晶は、TFTでも明るさが足りなくて、コントラストが弱いし、ちょっと視聴角度がずれるとほとんど灰色になるものだった。なので、安いTVは液晶、高いTVはプラズマという住み分けがなされた。液晶は、所詮透明と不透明を切り替えるデバイスで、自己発光するブラウン管より悪い。ブラウン管を超えるのはプラズマと思われていた。ただ、シャープが液晶に本気で頑張っていたので、視野角やコントラストの問題はどんどん解消されていって、「あれ?全部液晶でよくねえ?」となっていった。この時代シャープ、マジでトップランナーで、世界の表示装置の頂点に立ってた。

 1990年代から2000年代にかけて、プラズマの次を狙う表示装置の研究が各社で行われてた。この時代の主流は電界放出ディスプレイ(FED)と、その派生の表面伝導型電子放出素子ディスプレイ(SED)だ。日本のテレビメーカーはこれらにかけた。かけまくった。しかしこれらが研究を続けてもなかなか歩留まりが出ない。殆どのメーカーが撤退してしまった。現在FEDSEDはなかったことになってる。

 FEDSEDと同じ頃、有機ELの研究も行われていた。これは有機分子を励起させて発光させる、LEDとよく似た仕組みの表示装置だ。ただし、有機分子は一般的に寿命が短い。なので昔のTVなら10年も20年も使えたのに数年で色が出なくなるかもしれない。これじゃだめだろうとなる。研究をするも、なかなか歩留まりも改善しない。日本で有機EL研究してた企業は2000年代にほとんど撤退した。

 ソニーは比較的初期から有機ELの研究をし、量産にこぎつけたが、結局撤退し、PS Vitaの有機ELパネルをサムスンから調達したらしい。



 何年も前から、韓国サムスンは自社のアンドロイドスマホ有機ELを使い、日本はigzoに満足してiphoneの液晶受注してたのだよな。



 ここであげた液晶もプラズマも、FEDSEDも、有機ELも、だいたい発明はアメリカで、素材選択と量産工場の構築がアジア企業だった。これが90年代までは日本。2000年代以降は韓国になってる。これに日本企業は危機感持たなきゃいけないんじゃないかな。