HDR写真と絵画

HDR写真

 写真というのは、目で見たままの映像を写し取るものと思われがちだが、実際は僕らが肉眼で見た印象と随分違う絵を写し取ってしまうことがままある。特に明るい部分と暗い部分を同時に写そうとすると撮影時に思った印象とまるきり違うものができてしまう。たとえば、

 

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 このような朝の風景。日が当たっている部分に露出を合わせると影の中がほとんど真っ黒だ。考えてみて欲しい、朝住宅街を歩いていて、影に入ったとしてこんな暗闇を歩いているだろうか。ではカメラの露出を変えて、影の中が見えるように撮影するとどうなるか。

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 ブロック塀のディティールが見えてきたが、今度は向こうの建物や空が白く飛んでしまってよく見えない。こんな風景を記憶しているだろうか。

 普通の写真が表現できる明るさの範囲は意外と狭いのだ。そこで、露出を変えた写真を複数枚、同じ場所で撮影し、コンピューター上で合成するというテクニックが生まれる。これがHDR(High Dynamic Range)合成といわれるものだ。

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 なにしろ1枚のHDR写真をつくるのに、露出を変えた複数枚の写真が必要で、それをいい感じで合成するのにも時間がかかっていたため、HDRの動画を作ろうとすると以前は一眼レフで大量の連続HDR写真を作り、これをつなぎ合わせて動画にするというような方法がとられることが多かった。そのためどうしても長時間風景を撮影したタイムラプス(微速度撮影)動画にならざるを得なかった。

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 最近ではデジカメやスマホのカメラに、HDR撮影機能が組み込まれて、いちいち手動で複数撮影して合成する必要はあまりなくなっており、ムービーカメラにもHDRでいい感じに撮影する機能を持つものが出ている。少し前の型だが、公式の解説動画がいい感じなので貼ってみる。

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 絵画はもともとHDRだった

Caillebotte-PontdeL'Europe-Geneva

 

ギュスターヴ・カイユボット作「ヨーロッパ橋」1882年

 

 この絵、写真だったらこうは写らないであろう。橋の欄干が作る影の中をこれほど明るく描写しようとしたら、日が当たっている背景の建物や空は白く飛んでしまう。この絵が描かれた時代には、すでに写真は発明されているものの、あくまでモノクロでしかなかったし、画家は資料やデッサン素材としてしか使っていなかった。あくまで自分が実際に見た印象をもとに描いていたため、結果として、現代から見るとあたかもHDR合成写真のような仕上がりになっているのだといえる。

 

  20世紀にカラー写真が実用化され、写真そのものが芸術となっていき、人々が日常で写真を目にするようになると、「写真のように描くとリアルに見える」と思うようになる。影の中を黒く塗りつぶしたり、背景をぼかしたり、筆跡が見えないようにエアブラシを使ったりして、「写真のような」表現を取り入れていった。21世紀にHDRが普及することで、絵画の「リアル」もまた変化していくかもしれない。

駒形神社は陸中一宮。陸中って?

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 岩手県奥州市水沢区にある、駒形神社は「陸中一宮」を名乗っている。「一宮」というのは、伝統的に律令国ごとに一つしかなく、国司が参拝する位の高い神社であったとされている。もっともこの「一宮」という称号のようなものは、朝廷の公式な定義がなく、いつの間にか民間で呼ばれるようになったものらしいのだが、なんとなく12世紀頃から各地で言われるようになったものだ。

 

 で、まあ古代律令国のトップの神社であるならば、それは由来がいまいち定かではなくても伝統ある立派な物だと思うだろう。ところで、律令国に「陸中国」なんてあったけ?

 

 関東以北の本州地域は、古代から近代まで大きく陸奥と出羽の国に分かれていた。政権中枢から離れていて、遅れて朝廷支配下に入った、やたらだだっ広い田舎だったのである。明治維新時、奥羽越列藩同盟を作って官軍に対抗したこともあり、戦後陸奥と出羽は分割された。陸奥国(むつ)は陸奥国(りくおう)、陸中国(りくちゅう)、陸前国(りくぜん)、岩代国磐城国の五カ国になった。その後間もなく、廃藩置県で支配体制が近代化するとともに、「律令国」という区分そのものがほとんど使われなくなったため、これらの明治時代にできた新しい律令国は忘れられていった。僅かに三陸海岸の「陸前高田」、内陸の「陸中折居」といった地名に残滓が見える。「三陸」というのも、陸奥、陸中、陸前の三つの「陸」にかかる海岸であるから三陸と呼ばれるようになったものだ。

 

 さて、神社の「一宮」という呼称が、12世紀ころから律令国各地で使われるようになったものという話をしたが、もうおわかりだろう。駒形神社の「陸中一宮」はその「陸中」という、近代まで存在しなかった律令国区分故に、明治以降にできたもので、他の一宮に比べると、なんというか、ずいぶん歴史の浅い微妙な称号である。ちなみに明治以前からの括りでの陸奥一宮はもちろん他にあったりするので、変な入れ子構造になってしまっている。

サタンは神の法廷の検事。アスタロトはアフロディーテ

 サタンというと、キリスト教における悪魔のトップで、およそ最悪の存在という印象がある。かつて高位の天使であったが、人もしくはイエスが神に愛されたことに嫉妬し、神に反逆して堕天した存在とされている。旧約聖書創世記で、エデンの園でイブを誘惑し、神が食べるなと命じた知恵の実を食べさせた蛇が、後にサタンと同一視された。蛇は神の創造物の中でも知恵のあるものだったのだが、これが人を惑わせて神に背かせたことで、地を這い塵を食らう屈辱を押し付けられ、人の女に恐れられ、男にかかとで踏まれる卑しい存在に落とされた。これがのちに「天使が堕ちた物語」と重ねられ、さらに「蛇の強いやつ」的にドラゴンという空想的動物に投映され、西洋における「ドラゴン=悪」の図式につながる。現代人の視点で創世記を読むと、あれはどう見ても人間が蛇を忌避してきた歴史を説明する普通の起源説話で、あの蛇は別にサタンなんかじゃないと思うのだけど。

 

 創世記の蛇は忘れて、サタンに戻ろう。サタンはもともと「告発者」「反対者」というような意味合いのヘブライ語の単語だ。こういう一般名詞的な「サタン」の用例として、旧約聖書の「ヨブ記」がある。ここでは神が天使たちを前に地上を眺め、この世はすばらしい。人は神に対する信仰をもち栄えてるみたいなことを言う。ここで天使たちの中にサタンがいて、神に「いや人はあなたに媚びへつらってるだけで、不幸や利益があれば信仰なんて続かないっすよ」みたいなことを言い出す。そこで神はサタンと賭けをすることになる。この話結構長いのだけど、サタンと神は人の中でも信仰に篤いヨブを選び、この人にどんどん不幸を課していく。そりゃあもう、財産を失う。全身かさぶたまみれになって凄まじい苦痛をもたらす皮膚病になる。突然の災害で親族が死ぬ。妻は神が悪いと言うし、友人はお前が悪いんじゃないか?白状しろと揺さぶる。実際神のせいなんだけどね。この不幸の波状攻撃にもヨブは神への信仰を捨てなかったんだけど、最後の最後に弱音を吐いてしまう。そりゃあひどいよ。神の許可のもとでサタンが、ヨブの命さえ奪わなければ何してもいいという条件で不幸を重ねまくるんだから。

 ヨブが、自分はこんなに神を信仰してるのに、なんで神はこんな不幸をくれるのかと弱音を吐くと、神はもう異様にブチ切れるのだ。「お前俺が世界作ったときにその様子見てたの?見てないでしょ。お前のようなちっぽけなものが神のなにをわかるの?馬鹿なの?死ぬの?」と口を極めて罵るのだ。最後にヨブは信仰を取り戻し、失った財産以上の報いを得てめでたしめでたしになるんだけどね。死んだ親族とかは生き返らないのよ。神ひでえwww。

 

 それはさておいて、この話が、後にサタンを頂点とする地獄の悪魔軍団のイメージができる以前の「サタン」が描かれているという点で面白い。ここに登場するサタンは天使たちに混じって神の前におり、神の作りし人間にひどい不幸をもたらしているけど、それは神が許可しており、別に罰せられてもいない。つまり、ヨブ記が書かれた当時「サタン」は神の法廷において人を告発する検事のような立場であって、神に反逆した悪魔ではなく、神の世界運営の中で通常の役割を与えられた天使の一人だったということだ。ただ、人を神に背かせるために活動するという点で、後世のキリスト教的悪魔の原型ではある。

 

 一般的に、世界のほとんどで、神話は多神教である。世界の様々なものを司る神が想像されてきた。カナンの古代神話では最高神はイルもしくはエルとされ、これは「神」という一般名詞でもあった。旧約聖書で神を表す名詞の一つ、「エロヒム」は「エル」の複数形である。ミカエルとかガブリエルとかいう天使の名前の末尾の「エル」もこういう神格を表すものだろう。最高神「エル」は、それが神一般をも表す言葉だったためにエロヒムとしてユダヤ教にも取り入れられ、アラビアではアッラーフとなった。

 ところが、エル以外の、固有名詞を持つ神々は、ユダヤ教キリスト教の歴史の中で、貶められ、悪魔の名前に変化していく。エルの息子とされるバアルは、バアル・ゼブル(偉大なるバアル)と尊称されていたが、ユダヤ人からバアル・ゼブブ(蝿のバアル)と呼ばれ、ついには蝿の姿をした悪魔ベルゼブブとなった。

 美と豊穣の女神アスタルト。バアルの陪神ともされるが、これはヘブライ語では本来アシュテレトと発音されるのだが、「恥」を表すボシェトの母音を組み込んで「アシュトレト」と蔑称されたらしい。これが中世キリスト教の悪魔学で悪魔アスタロトになってしまう。ちなみに、アスタルトは各地で信仰、集合され、ギリシャの美の女神アフロディーテや、メソポタミアの女神イシュタルとも起源を同じくするらしい。

 

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「地獄の辞典」に描かれたアスタロト。これがアフロディーテと同じものとは…

 

 多神教においては、他地域の神も神として受け入れられるパターンが多かったが、ユダヤ教がヤハウエ以外を神と認めなかったことから、それらは悪魔にされてしまったわけだ。かわいそうな話である。

トランプとかドゥテルテとかイ・ジェンミョンが盛り上がる今。

 安倍首相が、日本の左派からは戦前回帰のとんでもない独裁者的に見られているが、現在の世界情勢は安倍首相どころではない過激なポピュリスト達が台頭してきている。

 

 アジア太平洋地域でこの流れを作ったのはフィリピンのドゥテルテ大統領だろう。コレに続いてアメリカのトランプ次期大統領。そして韓国の次期大統領候補として異様に盛り上がってるのがイ・ジェンミョンである。韓国次期大統領は国連事務総長のパン・ギムンだろうと思ったらここにきて「韓国のトランプ」というあだ名でイ・ジェンミョンが盛り上がってきた。この人達が訴えるのは実は極めてまっとうに自国の問題を解決する手段だ。ただ、彼らは他国を尊重する気持ちや、人権、ポリティカル・コレクトネスといった20世紀後半に成立した相互扶余の概念をほとんど無視する。無視というより敵視する。そして他国を悪役にして勢力を得る。

 

 人権思想と国際協調は20世紀にしっかりと形を整え、二度の世界大戦の惨禍を踏まえて、反差別という概念で築き上げられてきたが、これらの理想主義は21世紀に入って力を失いつつ有る。反差別は逆差別とみなされ、人権は人権真理教と揶揄され、ポリティカル・コレクトネスは表現の自由を犯す軛となりはてた。トランプが勝った理由の一つが反ポリコレ姿勢だったという話もあるが、「政治的に正しい言論」が、息苦しさを感じさせ、それを正面からぶった切るトランプに支持が集まるというのは非常に危険だと思う。

 

 人権というのは、簡単に言うなら生まれたなら幸福に暮らす権利があるという思想だ。もちろんこれは簡単ではない。国も国民も不断の努力をしなければいけない。人権思想は神の約束ではない。人間が人間を幸せにしなければいけないという、茨の道なのだ。現在世界中で起こっている事態は、この努力を捨て去って自国だけ、もしくは富裕層だけの幸福を約束し、その範囲外を切り捨てる行為に思える。

 

 第一次大戦後、列強諸国はブロック経済という囲い込みで自国の勢力圏の繁栄を試みた。結果第二次大戦に至った。あのころに匹敵する不安定をいまの世界情勢は生み出しているんじゃないだろうか。

オスプレイ事故に寄せて。基地のある自治体に住むということ。

 僕が現在住んでるのは神奈川県相模原市の相模大野だ。相模原は戦前から戦中にかけて「軍都」として開発された地域であり、戦後それらはほとんど米軍に接収されて利用されてきた。相模大野には米軍医療センターが広大な敷地を占拠していたが、返還されて伊勢丹や公園やロビーファイブなどの住居、公共、商業施設になっている。相模大野に引っ越してきた当時住んでいたマンションは、いまもそのまま残る米軍住宅のすぐそばで、マンションのすぐ横に金網で米軍施設が区切られており、ぎちぎちに詰まった現代の日本住宅街から金網を覗くと、広々とした芝生と平屋の住宅が並び、広大な庭には子供が遊ぶ遊具や三輪車が置いてある。いやあアメリカの軍人さんだか軍属さんだか、この広大な敷地でのびのび子育てできるのだなあと羨ましく思ったものである。

 いや実際これかなり羨ましいんだぜ。首都圏の過密地域の一角に広大なアメリカがある。周辺の道路もなにかと渋滞するのだけど、このだだっ広い米軍住宅を突っ切れたらさぞかし楽だろうなあってくらい広いのだw。

 

 ここからすこしいくと座間キャンプもあり、とくに引っ越してきた1995年から2000年くらいまでは日中戦闘機が往来する爆音が凄まじく。TVやラジオの音が聞こえなくなるので、ちょっとありえないくらいTVの音量を上げたりしたものである。

 

 その後子供が大きくなって部屋数少ない賃貸マンションでは厳しくなったので貸家に引っ越したあと、なんか基地周辺の家は工事費100%国負担で防音工事が行われることになり。窓を閉めっぱなしにするからエアコン2台までも無料でつけてくれることになり、ありがたく工事してもらったのだけど。そのころにはあまり戦闘機の日中飛行もなくなったので、実は必要なかったかもと思ったり。

 

 ああ、違う、うちの事情を話そうと思ったんじゃないんだ。神奈川の米軍関連施設も、あまり問題にはならないものの不公平感と公害をもたらす存在である。もちろん日米同盟をふまえての必要性はわかるのだけど、いざ米軍のそばに住むとイライラするのは事実なのだ。誤解してもらっては困るのだか、個々の米軍関係者とまちなかで出会うことは嫌な経験ではない。コンビニや公園やその他で出会う外国人には興味こそ抱けど、嫌悪感は感じない。人の関係と、スペースの関係は独立した問題なのだ。

 

 沖縄は、その歴史的経緯から米軍基地の占める割合が大きい。大きすぎる。神奈川で座間や相模大野の住民が思うレベルとは違うのだろう。沖縄で反基地運動してる人たちがみんな反日左翼みたいな見方をする人もいるような気がするが、実際そんなことはないのだと思う。あれは基地が実際多くて、嫌なんだと思うよ。そんな場所にある米軍基地だから、米軍も気を使ってるし、空中給油に失敗してプロペラを損傷したオスプレイパイロットが住宅地を避けて海に不時着したことを基地の偉いさんが誇りに思い、抗議にカチンと来るのもわかるのだ。ただ、副知事がオスプレイ事故そのものをあってはいけないことと考え抗議し、対応に不満を漏らすのもわかる、そもそもこれは抗議する側、される側の認識が擦り合わされていないのだ。人口過密の住宅地のすぐそばに基地があり、いつ事故が起こるかわからない。絶対事故は起こしてほしくないという側は、事故が起きたらそれ自体を糾弾せずにはいられない。一方事故を起こした米軍も被害を出さないよう本気で頑張ったのだから認めてもらいたい。これはどうしようもなくすれ違っている。本質的には基地が民間のぎりぎりに存在することなのだ。十分離れた場所で訓練する分にはたとえ事故が起きても大概問題にはならないのである。結局沖縄の狭い中に米軍基地がある以上どうにもならないことなのだ。沖縄が日米同盟の「犠牲になっている」という感覚をなくさなければ解決しないだろう。そのためには沖縄の米軍基地を面積で半減くらいはしないと駄目だと思う。東アジアに必要だと言うなら九州なり中部なり四国に移転でもいいだろう。そうでないならグアムに移してもいいだろう。沖縄の基地を日本の沖縄以外の都道府県に移動するというと大概どこも反発するけど、相模大野で戦闘機の爆音をここ20年聞いてきた経験を言うなら、それほどひどくはないといえるよ。

戦国時代逆行転生転移小説

最近のWeb小説で、中世ヨーロッパ風の剣と魔法の異世界に転移するのと同じくらい人気のジャンルが、過去の世界。戦国時代や第二次世界大戦の時代に転移するものだ。今回は戦国時代転移転生物の話をしたい。

 

現代人が死ぬかなにかして、戦国時代の有名武将や、その身近な人物に転生するというパターンは多い。王道は織田信長豊臣秀吉周辺だろう。大きい枠で言うなら歴史改変物になる。僕は歴史改変は大好きだ。逆に改変できないストーリーは嫌いだ。NHK大河ドラマの「真田丸」が人気だが、あれはどうやっても最終的に徳川が勝って真田信繁は死ぬことがわかってるので、見ててつらい。かつて家康の首を50m飛ばしたあげく、実は猿飛佐助が宇宙人だったという「真田幸村の謀略」という映画ですら、ラストで「家康の死は隠された」とか言って終わるわけで、歴史改変は「普通のお話なら」タブーなのだ。しかしWeb小説ならいくらでも歴史を平気で改変できるのである。

 

織田、豊臣系

みんなが見たい歴史改変戦国物といったら、織田信長が本能寺で死ななかったらどうなったかという話だろう。これを描いている作品がある。

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織田信長天皇の上にたつ神皇帝という地位についちゃう。そんで中国大陸に侵攻しちゃう

 

信長が本能寺で死なずに大陸進出する話って、本宮ひろ志のマンガ「夢幻の如く」があったよなあ。

 

信長ではなく、豊臣秀頼が大陸進出する作品もある。こちらも日本の天皇と並立して海外も含む支配者として秀頼が「皇帝」を名乗るという展開になる。なんか微妙に似てる。

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公家戦国系

さて、織田や豊臣と言ったスター級の戦国大名ではなく、戦国時代の時代劇での暗黙の武家支配を揺るがす作品もある。律令制に基づく公家の支配を使用した転移ものとして、以下の2つがある。

 

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両方共現代人が戦国時代に転移して、公家の庇護を得、飛騨の国司になってそこから戦国日本に勢力を増していく話だ。飛騨は山間地で普通に言って米作の点では貧しい小国で、そこから勢力を増していくのが痛快な展開になっている。この二作品が両方「飛騨国」を「戦国大名ではなく公家の立場で」開拓するという偶然の一致が興味深い。なお、現在「よくわかる新?戦国日本史」の方は作者体調不良で更新停止している。

 

戦国時代にはすでに形骸化していたが、まだそれなりに権威があった「国司」という地位で活躍するにあたり、これらの作品は、主人公が現代人であることから知識チートを使用して実効支配を強めていくわけだけど、知識チートだけなら戦国武将転生でも同じことなのだ。なにが違うかというと、朝廷からの国司の地位は、足利将軍家の守護などとは独立していて、実力さえあれば将軍を頂点とした武家ヒエラルキーをまるっと無視できてしまうことが面白いのだ。

 

戦国畿内

戦国時代の畿内が舞台になる作品。戦国時代というと織田信長から豊臣秀吉徳川家康と、東海、関東のイメージが強いが、畿内には足利将軍や六角、三好といった、当時実際政府と言えるものを持ってた連中がいたわけで、そこにはいろいろ美味しいネタが有る。

 

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史実にはない六角家の末子が活躍する。転生転移物ではなくて、あくまで六角氏に架空の男子を挿入して歴史を改変している話。結構おもしろい。

 

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足利将軍が逃げ込む先だった近江の朽木家の朽木元綱がモデルな、朽木基綱が主人公。現代人の転生っぽい。結構緻密に話を書き込んでて楽しい。朽木なんて、マイナーな国人領主が史実の信長以上の立場になっていくのがいい。

坂上田村麻呂黒人説というのが海外では意外と広まってるとか

どんぐりこ - 海外の反応 海外「映画化希望!」日本で平等に扱われた黒人奴隷の歴史に海外が感動

上の記事では、織田信長に仕えた黒人、弥助についての外国人の反応が寄せられているのだが、なんだかよくわからんが、侍はみな黒人だったというような勘違いをしている人がいる。最初の侍として坂上田村麻呂の名も挙げられているのだが、どうも坂上田村麻呂黒人説というものがあるらしい。

細かい話だけど侍(武士)は10世紀以降の、武芸を家芸とする下級貴族から始まるもので、坂上田村麻呂の時代に侍は存在しない。田村麻呂は武官である。

 

坂上田村麻呂黒人説 - Wikipedia

どうやらカナダの人類学者が、坂上田村麻呂をネグロと書き、それがアメリカの公民権運動に取り入れられて広まったらしい。カナダの人類学者が何を根拠に田村麻呂をネグロと書いたのかは謎である。坂上氏の先祖は系図上では後漢霊帝の末裔で、百済からやってきた渡来人であるらしいが、渡来人であってもおそらくモンゴロイド以外ではありえないだろうと思われる。

 

どうも「坂上田村麻呂が黒人である」という説、「坂上田村麻呂が最初の侍である」という誤解から、「侍は坂上田村麻呂の子孫で、黒人の血を引いている」みたいなイメージになってしまっているのだろうか。なんともややこしい話である。