マーフィーの法則と進化論

 マーフィーの法則とは、「なんであれ悪くなる可能性のあるものは必ず悪くなる」「トーストを落としたときに、バターを塗った面が下になる確率は絨毯の値段に比例する」といった、ペシミスティックな法則である。もちろん根拠はないが、なんとなく聞いた人が納得するものがいくつも作られている。まあ、一種のジョークではある。

 マーフィーの法則がもっともらしく感じられるのはショッキングな出来事が、より強く記憶され、印象に残らないものは忘れやすいという人間の脳の働きによるものであろう。大概の人は失敗や損害を強く記憶に残すものだ。

 さて、もともとの自虐や悲観的な要素を排除するとこの法則は「確率がゼロでない事象は、試行を繰り返せばいずれ起こる」という当たり前の話になる「99.9%安全」と言われれば大概の人は安全だと思うが、それは「0.1%危険」と等価であり、1000回やれば一回くらいは危険な事になるという話である。たとえば遊園地の遊具が99.9%安全だとして、一日1000人が使ったら、一日一人は危険という事になる。試行回数が多くなると意外とやばい。

 

 生物は自分のコピーを生産し続ける。だが、コピーは100%完璧とは言えない。遺伝子を複製する際にコピーミスが起こりうる。何百世代、何千世代の複製で、遺伝子が徐々に変化していく。コピーミスはランダムに起こる。であるなら、無数の試行が行われ、遺伝子が発現する表現型は壊れていく。マーフィーの法則によって必ず壊れ続ける。環境に適応している形質が、世代を重ねる中で必ず壊れる。変化がランダムである以上、「壊れた結果よりよくなる」可能性は非常に低い。では生物は進化するはずがないのでは?

 

 生存と繁殖に不利な変異のほうが多いとしても、そういう変異をした個体は生き残りが難しいだろう。結果的に生存に不利な変異をした個体は子孫を残すことなく死ぬ確率が高まる。ランダムな変異は大概が有害である。なので、殆どの場合「変異してない」個体がより多くの子孫を残し安定する。世代交代がものすごく多く重なる中、ほとんどの変異は子孫を残せず、大半は変異しない連中が支配し続ける。しかし変異の回数自体は多い。その、「ほとんど捨てられる変異」の中に、保守的な変異しなかった個体よりわずかに生き残りやすい形質が産まれた時、その遺伝子は集団の中に広まる資格を得る。

 

 花に擬態するカマキリや、枯れ葉に擬態する蛾がどうやって進化しただろう。それらの先祖はそんなに花や葉に似てなかったろう。個体差のレベルで若干色や形が背景に馴染みやすいものがいたかもしれない。ほんのちょっとの差でも背景に似ていない方が鳥に食われて死んだだろう。残ったのはほんの少し花や葉に似た個体。それが増えた中から、さらに鳥に食われ、より花や葉に偶然似た個体が生き残った。その繰り返しの何千年、何万年、何億年の結果、異様に花に似てたり枯れ葉に似てたり姿を作り出す遺伝子が残った。

 

 洞窟の中で進化した魚やエビは色が白くなり、目が失われる。暗黒の環境では体表の色素を作る遺伝子、目を機能させる遺伝子に淘汰圧がかからない。なのでマーフィーの法則が牙を向いて遠慮なく刈り取っていく。壊れても繁殖に無関係な昨日はおそるべき勢いで刈り取られていく。

 

 進化とは、ひたすら壊れ続け、その中から適応を選択していく過程である。そこには実は、意志も戦略もない。よく言う「進化戦略」とは、結果から意味を見出す過程にすぎないのだ。

ヨーロッパ風異世界後宮物を読んでも畳の和室が頭に浮かんでしまう

「小説家になろう」などのサイトで発表されている作品で、中世~近世ヨーロッパ風の異世界での後宮が舞台となっているものがいくつかある。たとえば

ncode.syosetu.com

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といった作品である。この二作品はたいそう面白いのでオススメだ。それはさておいて、このような後宮を舞台とした作品の場合、読んでいてなんというか、側室たちが暮らす後宮のイメージとして、和室の風景が浮かんでしまうのだ。ヨーロッパ風の王室における後宮が想像できないせいか、どうにもこうにも大奥的な日本の時代劇風景に置き換わってしまう。よく考えたらヨーロッパの王室って、キリスト教の強い影響で建前上一夫一婦制が厳しく守られていたから、王の血筋を残すための側室という制度も、後宮というものもなかったのだ。もちろん王の愛人とか、公妾と呼ばれる存在はいて、ときに政治に大きく影響を及ぼすこともあったのだけど、基本的に王の子であっても正妻との間に産まれた子でなければ相続権がなかったので、「王の跡継ぎを確実に確保するための側室制度」とは違う。

 

なろう作品では後宮を主な舞台にしないものでも、「妾腹のため第一王子なのに相続権を持たないが、王子ではあり、王宮に暮らしている」とかいう設定もよくある。なんというか、「なろう風ヨーロッパ世界」が出来上がっているよなあと思うのだ。

氏、姓、苗字の謎

 現代日本において、氏、姓、苗字は基本的に同じで、家名を表すものとなっているが、明治以前はこれらは別のものだった。このへん現代感覚ではすごーくわかりにくい。それはもうとんでもなくややこしい。

 

 「氏」はもともと祖先を同じくする集団の名乗りであった。氏族とかクランとかいう感じのあれだ。出雲氏とか尾張氏とか葛城氏なんてのは地名をあてた氏族だ。それに対し、朝廷内の役職を担う氏族として物部氏とか大伴氏とかが存在した。物部氏は武器の製造に始まり、古代朝廷の軍事を司る氏族だった。その後、中臣鎌足藤原氏を賜り、皇族が臣籍降下する際に賜るものとして源氏、平氏などが産まれた。「氏」の特徴は発音する際「の」がつくことである。物部「の」守屋、蘇我「の」馬子、藤原「の」鎌足、源「の」頼朝といった具合である。中世に産まれた豊臣も氏であり、従って豊臣秀吉は正しくは豊臣「の」秀吉と呼ぶべきだという意見もある。朝廷から下賜される氏として有名なのが「源平藤橘」、源氏、平氏藤原氏橘氏とされてるが、橘氏はさっさと衰退しちゃったのであんましメジャーではない。

 

 「姓」は「カバネ」と読む。これは名乗りの一部ではあるが、現在ではほぼ消滅している。というか、どっちかというと尊称であった。古代の「ヒコ」や「ヒメ」、「ヌシ」「モリ」みたいな、名乗りの後につけるものだったらしい。その後「オミ」(臣)とか「ムラジ」(連)とかの、大王の家来の偉さを表す記号として使われた。地方官の国造(クニノミヤツコ)とか県主(アガタのヌシ)とかもあった。現代に残る「大臣」とかも古代の大臣(オオオミ)の名残である。滅亡した百済の亡命王族に賜わされた「王」(コニキシ)なんてカバネもある。王族や王を中国語でも当時の大和言葉でも「コニキシ」なんて呼ばなかっただろうから、これはおそらく当時の百済語の発音をなにがしか引いてるのだろうという意味で興味深い。

 このように「姓」は古代に役職や地位を表す尊称であって、自然に呼ばれていたものが起源だと思うが、次第に制度化されていき、天武天皇の時代に八色の姓とよばれるものになる。その当時普及していたオミ、ムラジの上に真人、朝臣宿禰などを追加したものだ。この頃から姓は氏の後につけるものになっていったらしい。ちなみに八色の姓の最上位は皇族につける「真人」なのだけど、藤原氏が「朝臣」を賜った後、藤原氏全盛期を迎え、藤原氏の「朝臣」(あそみ、あそん)の方がみんな欲しがるトレンド姓になってしまい、「朝臣」以外の姓がほとんど絶滅してしまう。

 

 さて、氏がある時期からは朝廷から賜る氏族名であり、姓は爵位的な権威の印であったわけで、家名は氏の方が担っていた、しかし氏はそれほど多くなく。同じ氏が日本中で使われることになる。そうなると区別のために比較的近い縁戚の名乗りとして「苗字」が生まれる。苗字は地名を由来にしたり、藤原氏の藤に前置詞をつけて加藤とか後藤とか名乗りだす。ほんとこのへん中世にはごちゃごちゃになっちゃってしまうのだけど、武家は先祖を源氏や平氏に捏造するのがあたりまえになって、織田信長豊臣秀吉平氏を名乗ったり、徳川家康が源氏を名乗ったりするわけだ。徳川家康の正式な名乗りが「源朝臣徳川次郎三郎家康」なんて代物だったりする。「源」が氏、「朝臣」が姓、「徳川」が苗字である。

 

 こういうややこしい氏、姓は明治初期まで使われた。大久保利通が「藤原朝臣利通」なんて署名したりしてるんである。その後「氏」「姓」「苗字」を統合することになり、現代日本の姓名システムが確立するのである。

【ネタバレ】シン・ゴジラ感想 名状しがたきゴジラ

ネタバレ感想なので空白を開けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シン・ゴジラのすごいところといえば、緻密な政府や自衛隊の描写だとか。みんな大好き無人在来線爆弾だとかいろいろあると思うけど。ゴジラとして、いや、地球の生物として完全にはみ出してしまったゴジラそのものの描写がなんともいえないと思う。もちろん肺魚のような形態から進化変態するゴジラというのがそもそもゴジラでやっちゃいけないたぐいの物なのだけど、これが鎌倉再上陸からの「いままでのゴジラにほぼ近い形態」になったところで僕らは安心する「ああ、ちゃんとゴジラになった。あとはちゃんとゴジラが町を破壊して自衛隊と戦ってなんかオチがついて終わるんだろう」と予定調和的な安心感を抱く。東宝だからちゃんと放射能火炎も吐くだろう。今回はどんな演出になるのかな、84以降は火炎と言うよりビームだよなとわくわくする。

 

 さて、ハリウッドで二度ゴジラが制作されるにあたり、最初のエメリッヒ版は放射能火炎なんか吐かない、ただの巨大生物だった。もちろん生物がビームを吐くなんて普通ありえないから、リアリティを追求したのだ。エメリッヒは巨大生物パニック映画を撮ったのであり、ゴジラを撮ったのではなかった。2014年のギャレス版でも生物の域を超えるブレスシーンは後半クライマックスまで出さず、ぎりぎりの衝撃的な映像として描いた。ギャレス版ゴジラは単なる生物ではなく、地球のバランスを保つ一種の神として描かれたのでブレス吐いてもいいのだが、太古の放射能を利用して生きていた「生物」に過ぎないムートーを出すことで、ギリギリまで生物なのかそれを超える何かなのかを曖昧にして、効果的なところで一気に出していた。やはり生物がビーム吐くのはリアルじゃないから、いろいろどーでもよくなるタイミングまで秘匿したともとれる。

 

 ゴジラは、もともとは水爆実験で住みかを追われた恐竜に過ぎなかった。放射能火炎は円谷英二が「カッコイイからつけた」ものであり、細かい設定は考えられていなかった。あえて考えるならゴジラの体そのものが放射性降下物や放射線を浴びて放射能をまき散らす状態になっており、吐く息も放射能ガス、しかもなぜか高温、という程度の感覚で捉えていただろう。1984年にいままでのゴジラシリーズをなかったことにして、久しぶりにゴジラを作る際、ゴジラそのものが生体原子炉であり、核エネルギーで動いてるし核反応を押さえるカドミウム弾で活動停止に追い込まれるというような設定が明確化された。それでも核エネルギーで動く生物であっても、ゴジラの体は恐竜のような姿で、目は物を見、口は摂食気管であり、手足を使って歩き、持ち上げ、闘う。暗黙のうちに普通の生物としての機能を持っており、核エネルギーはオプションだと思っていた。ゴジラ放射能火炎、または放射能熱線は、口から吐き出されるものであるので、摂食気管が体内に蓄えた核エネルギーを放出する役割を後から持ったものだろうと納得できた。こういう、生物に追加気管を加えた場合の想像から大きく外れないものだった。

 

 シン・ゴジラの熱線放射シーンは映像的にあまりに強力で、庵野監督が80年代から作ってきたアニメの大爆発シーンのような表現がなされ、それが実写である物だからもうネタバレを避けるなら絶対見せちゃダメなレベルの衝撃シーンになっている。ただ、その爆発的なエフェクトがすごいだけじゃないのだ。あのシーンで、ゴジラの口の中が、どうみても食べ物を摂取する構造になっていないのが見えるのだ。さらに、あのときゴジラの下顎はプレデターのように横に広がり、縦方向の開口角度がほとんど180度に近づく。あれは地球の生物で言うところの「口」ですらない。ビーム放射のための完全な発射口なのだ。あの瞬間、ゴジラは怪獣映画の、なじみ深い巨大生物ではなくなる。あれは多数のビーム砲台を備えた「ナニカ」になってしまっているのだ。もう、トップをねらえ!の宇宙怪獣、もしくはまんまエヴァンゲリオンの使徒である。

 

 ゴジラに関しては、作品冒頭で行方不明になっている(死んでるっぽい)牧博士がなにかをしてるらしいのだがそれがなにかは不明のままだ。かつて海底に投棄された放射性廃棄物を餌にしていたというような説明がなされるが、はたしてそれだけだろうか。ラストで尻尾からいくつもの人形(ヒトガタ)が分離しかけている絵はなにを表すのか。あれ?あの絵ってあれに似てない?

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 なんかさ、続編ありそうな終わり方だけど、あれ、あの後って結局ゴジラが再起動して東京が核攻撃をうけ、長野に遷都、完全生物ゴジラの研究のための人口進化研究所とかできちゃったりして、結局エ……

CG以前に特撮の瑕疵が見えなかった唯一の作品は2001年宇宙の旅だと思う

 映画の歴史において、極初期にジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」があったように、映画において特撮は重要な要素だと思う。そして、それはどうやってもチャチに見えてしまう事との格闘だった。

 

 ミニチュアセットはどうしても小さく見える。カメラを寄せて大きく見せても、ボケ具合で小さく見える。現代逆にティルトシフト撮影で近景遠景をぼかすことで実写の風景が模型に見えるテクニックが登場しているが、つまりあれである。カメラが被写体に近いと、距離のちょっとした差で大きくボケてしまう。これを解消するには、ミニチュアモデルを大きくする必要があるが、実物大にまで拡大してはミニチュアである意味がない。

 ボケをなくすためには、カメラの絞りを大きく絞る方法もあるが、それだと光が足りなくなる。2001年宇宙の旅は、その方法で露出時間を増やして解決していた。極限まで絞って、一コマの宇宙船を撮影するのに数分とかかけて撮影したのだ。担当したダグラス・トランブルが「二度とやりたくない」というほど大変だったらしい。

 

 特撮において、ミニチュアや、別撮り背景と人物を一つの画面に合成する場合、ハイコントラストのマスクフィルムを使用して、何度も光を当てて合成撮影することになる。このマスクの輪郭部分はどうしても輪郭線のようなちらちらした境界が見えてしまうので、合成は非常に難しい。スター・ウォーズの現在見られるバージョンではCG処理で消されているが、公開当時、やはりデス・スターの上を飛ぶXウィング、惑星ホスの雪原での合成など、輪郭が丸見えだった。スター・ウォーズでさえぱっとみて「ああ、合成だ」とわかる画面だったのだ。光学合成が完璧に行えるのは基本背景が真っ黒な場合に限られる。

 

 2001年宇宙の旅では、基本宇宙空間での合成しかしていないので、全く合成の輪郭は見えない。派手な爆発も避けているし、そういう「無理なことは避ける」手法もうまく駆使していたのだなあと思うのだが、それにしてもあれはほんとに何ひとつ瑕疵が見えないのだ。1968年に存在したあの映画、こと映像に関してはオーパーツと言っていい。背景が黒でない合成では、月基地に着陸するシーンでミニチュアの着陸ドック内の作業員が映っているのだが、矩形でうまくマスクを切っているので境界が見えない。

 

 いやアナログ時代の光学合成って大変なんだぜ、モニター上での位置合わせとか不可能なんだから。

 

 2001年の特撮を担当したダグラス・トランブルは、1970年代に「サイレント・ランニング」や「スターロスト宇宙船アーク」を担当していて、この辺の作品もかなりいいのだけど、やはり2001年に比べると細かいところでリアリティを表現しきれていないと思う。

 

 スター・ウォーズの特撮を担当したのは、ダグラス・トランブルの弟子のジョン・ダイクストラで、彼は後に「モーションコントロールカメラ」と呼ばれる機械とその撮影手法を「ダイクストラレックス」と名づけたのだが、まるで定着しなかった。スター・ウォーズVFX作業があまりに遅いのでルーカスにクビにされて、「宇宙空母ギャラクティカ」の特撮を担当。「スター・ウォーズのパクリだ!」と訴えられたりしてる。

 

 まあそれはさておいて、「2001年宇宙の旅」の特撮は、ほんとにまるで瑕疵が見えないのだ。SF特撮ジャンルにおいて、これはマジでありえなかった偉業で。こんな作品がこの時代に存在した事自体が恐ろしい事実なんである。CGでなんでもできる今だからこそ。あれを1960年代に実現させたことがすごいと思える。まだ見たことのない人がいたら、ぜひ一度見てほしい。

 

霊的装置としての靖国神社

 僕はサヨクを自称しているので靖国神社は基本的に嫌いだ。そもそも神なる超自然的存在をまるっと信じていないので、国のために死んだ人間が神になるという設定自体全く納得できない。そんな僕が靖国にいったのは大学卒業時。武道館で行われた卒業式に田舎の両親がやってきて、「近いから靖国いきたい」と希望されたからだ。

 

 渋る僕を父が「おまえの親戚もここにいるんだから」と靖国につれてったのだが、行ってみるとなんというか、あれはすごいと思わされた。立ち並ぶビルとクソみたいに狭い民家が並ぶ千代田区で、あの領域は切り離された空間と言っていい。十分に広い、かつ街を歩いていては到達できない空間。丸石を並べた参道は、歩いていくうちに次々英霊の銅像が現れ、たまたま参拝客の少ない時期だったのかもしれないが、異様に静かな「異界」を現出させていた。これは確かにこの世と彼岸を繋ぐ境界を演出している。純粋に民衆を導く空間設計というものがあるのだなとすげえ感心した。

 宗教建築というものは、基本的にそういう設計がなされている。西欧の大きな教会も神の世界を感じさせるために知恵を絞ったものだ。そして人間は容易にその異界に呑まれる。

 

 古くはエジプトの大ピラミッド、日本の仁徳天皇陵もそうだが、巨大なものを築いて民衆を畏怖せしめる。世俗との切り離しを行って神秘に触れる修道院、現代の新興宗教が、笑っちゃうようなド派手な建物を建てるのもすべて信者を畏怖させ、常識的な世界を超えさせる試みである。

 

 現代先進国の、高等教育を受けている人間は、本来的に「畏怖」に頼る霊的装置を認めない。それは生物としての本能に訴えるものであって、非論理的だからだ。世界の本質が科学に置き換わった現代社会では、あんなものは認められるわけはない。しかし人の多くは感性に抗えない。そして霊的装置が生み出す異界は人を拘束する。理性と感性。この戦いは19世紀には理性が勝つと思われたのだが、いまでも決着がついていないのだ。

収入と肉と野菜とトンデモ

 昭和時代のマンガで貧乏を描くと、まあおかずがメザシとかそういう描写だったわけだが、まあさすがにメザシ一本しか食えない家庭はそんなに多くなかったと思う。ただ、当時は肉は結構高いもので、魚と肉で言ったら日常は魚、肉が食える機会は少なかった。貿易がどんどん自由化され、円高になり、輸送技術も上がって来た昨今ではおかずに魚買うよりも輸入の鶏肉か豚肉買ったほうが安上がりで量もたくさん食べられる場合が多い。ブラジル産鶏もも肉とか、アメリカ産豚肉とか。そんな感じで店頭で一番安い食材を探すクラスの家庭では、野菜を買う際にも通常無農薬野菜とか選ばない。そんな家庭にとって心強いのは、「いまどき慣行農法で農薬や化学肥料使っても害があるわけはない」という常識なわけだ。

 農薬を使わない農業では、通常より病虫害が起きやすくなるため、農家はその対策に追われることになる。いくら無農薬だからといって、虫食い穴だらけの野菜を喜んで買う人は少ないからね。より手間暇をかけて農作物を作る人は、おいしくなるための工夫も頑張っているかもしれない。そういう点で無農薬野菜の方が美味しいということはありうる。それも正直どうかなあと思うのだけど…

 で、あえて無農薬野菜を買う人というのは、少なくとも大量生産の野菜より高価なそれを買えるくらいには裕福な人が中心となるわけだ。つまり、お金に余裕のある人たちが、「よりおいしい」「より安全」と「思われる」というブランドを購入する形になる。

 

 思うのだけど、富裕層が、お金を使うにあたって食い物以外でも大量生産品ではなくブランド品を買う行為と、食品の安全、味を求めて無農薬ブランドを買う行為はあまり違わないのではないかと思うのだ。実質変わりないのかもしれなくても、「より確実に安全だろう」という安心感にお金を払う。店頭に並ぶ段階で全く残留しない、全くでなくとも健康に影響あるほど残留しないとされる農薬でも、ひょっとしたら農家がかけすぎてるかもしれない、出荷直前にかけちゃって残留してるかもしれない。それよりは最初から使わないのがわかってるならそっちに金を払う。

 

 富裕層は、貧困層が使えない部分にお金を使える。そこには自由が増えており、増えた自由が富裕層のエリート性を高めることになる。無農薬を求めることで、富裕層貧困層に対し優位に立つ。つまり慣行農法作物を買う選択しかしない貧困層は「より正しいかもしれない選択ができない」層になり、無農薬野菜が買える富裕層は「貧困層より正しい選択が可能」ということになるわけだ。それが本当に正しいかはさておいて、選択肢を持てるということだ。

 まあ、慣行農法か無農薬かという程度の話ならこんなのはどーでもいいのかもしれない。ただ、こうして自由な選択にお金を使う層が、貧困層≒大衆との差別化情報をそれと意図せず集めはじめ、陰謀論やトンデモにハマってしまうのではないかと、ちょっと思った。なんでかっていうと、参議院選挙に出た三宅洋平がまるでトンデモのデパートみたいなことをつぶやいていたから。

 リベラル系というと、日本だとぼんやりと左派ってイメージ、多分ゴリゴリ社会主義とかじゃない、反戦平和主義で自由主義的、ヒトとの付き合いがライトでそれほど思想を突き詰めないみたいな感じだと思うんだよね。そんなリベラルな富裕層、しかも音楽家っていう才能ジャンルの人。このへんだと「大衆が認識してない真実」的な情報あつめて自分を高めようとしてしまうのではないだろうか。そんでおかしなことにとりつかれたときに、知人友人関係から忠告されない。なぜなら友人関係が自由主義で暑苦しくくっつかないから。SNSにおけるふわっとした繋がりで、「そうなんだー」で納得して伝搬していく。対等な相互承認だけのネットワークだから、「あなたそれは変だよ」と反論して空気を悪くすることがない。結果トンデモを修正できず、どんどん強化されて、それが正しい情報になってしまう。たちが悪いのは、「空気が悪くなるから反論しない」が「深く考えない」「あの人が言うんだから正しいんだろう」「トンデモとか言ってる人も外にはいるけど、わかってないんだな」と強化されて行くであろうこと。

 

 いや貧乏な家庭が代替医療とかにハマって借金で破滅するってのもあると思うけど、そういうところは潰れてしまうから、結局ミームを拡散するのは富裕層だと思うんだよね。